◆Movie
岡崎 凛 

「木靴の樹 」
1978年 イタリア 179分
監督:エルマンノ・オルミ
出演:ルイジ・オルナーギ、オマール・ブリニョッリ、
   ルチア・ペツォーリ

 19世紀末の北イタリアの貧しい農民の生活を、そこに生きていた農民の視点から描いた映画。この視点は、最初から最後まで徹底して変わらない。
 この映画は、貧農から搾取する側を安易に非難したり、清く貧しく美しく生きる者を脳天気に描いたりはしない。インテリの高みから型どおりに農民を描くこともない。そうした夾雑物を見事に取り除き、数組の家族のさまざまなエピソードを一見淡々と描いているが、その描写が実に緻密である。人々が大切にしている全てのものが、自然の光の中で輝いている。
 観客を惹きつけるのは、常套句でくくられるものから、はみ出したものだ。型どおりの言い方をするなら、「貧しさと闘い、ただひたすら生きることに懸命な」人々を描いた映画ということになるだろう。だが、極めて厳しい状況の中でも、登場人物たちは独自の価値観と幸福感を大切にして生きている。彼らはときに生真面目で、ときにユーモアと寛大さに満ちている。きわめて身近でありながら高邁なものを、この監督はいくつも見せてくれるのである。だがこの農民たちには、地主の納得しがたい処遇に抗する手立てはない。
 監督自らが撮影、脚本、編集を担当。彼の徹底したリアリズムの追求に、最高の賛辞が贈られるべきである。リアリズムという語は手垢にまみれた言葉であるが、やはりこの言葉なくして彼の映画は語れない。

「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」
1977年 ソ連
監督:ニキータ・ミハルコフ
主演:アントニナ・シュラノーワ、
   アレクサンドル・カリヤーギン

 脚本はチェーホフのいくつかの短篇をベースにして書かれたものだという。ある貴族の屋敷に招かれた客たちの会話を追って行くのだが、前半、だだっぴろい庭でだらだらと回るカメラと、話の展開ののろさに、思わず睡魔に襲われた。ところが、結末に向かうにつれ、話がどんどん面白くなっていく。当時の共産主義者たちも絡んでいるとは、最初は当然予想もつかない。登場人物の交す言葉が激しさを増し、話が核心に触れようとするとき、機械じかけのピアノの音が突然鳴り響く。こうした構成が実に見事なのだ。この映画にはこうした仕掛けがいくつも用意されている。
 この映画を見た当時は、近々ペレストロイカの時代が到来するとは誰も予想できなかった。だから、物語の中での比重はさほど大きくないにせよ、何らかの政治批評が盛り込まれたソ連映画を見ることができたことは、非常に意外だった。検閲の担当者が見落としたのか、よく理由は分からないが、見事な体制批判が込められていたのに、上映禁止にならなかったようだ。この映画は、当時のロシアの映画人たちが体制にのみ込まれたままになっていないことを――政治思想と対峙することなく、ただやり過ごしているわけではないことを、教えてくれた映画でもある。

「アレキサンダー大王」
1980年 ギリシア・イタリア・ドイツ合作
監督:テオ・アンゲロプロス
主演:オメロ・アントヌッティ、エヴァ・コタマニドゥ

 この映画が日本で封切られた頃、ギリシャの現代史を知らなければ理解できない映画だという話をよく耳にした。確かに政治・外交の歴史が深く関る映画である。だが、この国と英国の関係などについてかなりの予備知識があったとしても、この映画の不可解な部分を完全に解明することはできないだろう。映画が進行するにつれて謎は増えていくばかりだ。
 自立したコミューンとなっていた村の指導者が言う。行き場を失った英雄アレクサンダーとその部下たちは、だれかに「利用された」のだと。そのだれかが、彼らの脱獄を手引きしたのかも知れない。しかし、映画は謎解きに拘泥することはない。村人に囲まれた主人公アレクサンダーは忽然と消える。そして、新たな英雄となる可能性を予感させる村の少年が、ある町に入っていくところで映画は終わる。この少年の名も、アレクサンダーだ。
 観客は完璧な画面構成、撮影技術に圧倒される。圧巻はかの有名な360度のパン。映像は限りなく美しいが、ときに同じシーンが、ほとんど変化なく何分も続く。しかし彼の映画を楽しむには、多少は体力を消耗しつつ、持久戦で臨むしかない。
 ときに彼の映画は観客を拒絶しているかのようだ。観客はなけなしの知性を動員して彼の映画を理解しようとする。例えば、観光ガイドが話し始める、婚礼の日に殺されたアレクサンダーの妻は、彼の養母であったという説明。謎に満ちた人物に、どこかで聞いたようなエピソードが加えられる。ここでわれわれは陳腐な解釈を並べ立てたくなるだろう。だがどうやら、これが罠のようなのだ。この映画は、最初に登場するイギリス貴族たちへの軽侮という形で、脳天気な教養趣味への嫌悪感を提示している。こうして映画は、安易な解釈を拒絶しながら、一方次々と謎めいた出来事を提示しつつ映画は進行する。
 「行き場を失ったかつての英雄とその仲間の挫折の物語」という流があり、登場人物の心の動きは重要な意味を持つものの、その細部は語られない。あのロングショットでは俳優の顔や目の動きを見てとることはできない。しかし、登場するいくつかの小道具または衣装に、深い意味を読み取ることができる。アレクサンダーの深い悲しみを表す、結婚式の日に射殺された彼の花嫁の、胸に赤い染みのあるウェディングドレス。それが物語のクライマックスでの、悲しい事件にまた重なることになる。しかし、徹底して説明は少なく、観客が脚本を読み取るのは簡単とは言い難い。しかし、多少観客に不親切であれ、映画を撮る側の「文体」を崩さないことが優先される。説明は最低限にし、映像そのものに語らせることに徹している。
 この映画は、映画と向き合い、自分も参加する側に立たなければ、ただ眠いだけの映画になるだろう。確かに、あまり体調の悪い時には見ないほうがいいだろう。しかしこの映画を見れば、最高としか呼びようのない映像美と出会うことができる。骨身を削ってこの映画を作った人々の気概に触れることができる。この上ない糧として記憶にとどめるシーンに出会うことができる。監督をはじめ、この映画を世に送り出すために尽力した全ての人たちに拍手を送りたい。

「ツィゴイネルワイゼン」
1980年 日本 2時間24分
監督:鈴木清順

 河原畑寧の解説によれば、田中陽造は、内田百けんの2作品をベースにこの映画のシナリオを書いているが、それ以外の百けんの初期作品も影響しているようだ、としている。残念ながら百けんのことは詳しくないのだが、恐らく田中陽造は、彼の得意の倒錯傾向にそった題材を百けんの作品から選んだのだろう。そこに、田中の得意とする、甘美さと奇形偏愛が同居する奇妙な世界が結びついていく。そして鈴木清順監督が、闇と鈍色と極彩色とを使い分けてこれを映像にし、奇妙な物語が格調高い世界と下卑た世界を乱高下しながら、非日常へと突き進む。
 中心となる題材は、「骨への偏愛」と「死者の声」だろう。骨となったはずの「私」の友人中砂が、彼の妻を通じてあの世から「私」に語りかけてくる。彼は、生前のままの酔狂なユーモアで、死んでも「私」にちょっかいを出してくるようだ。そして彼の骨偏愛は、物語の最後まで、中心的テーマとなっている。現実と夢、願望または不安と幻覚が、その境界線を失っていく。
 役者の演技もいいが、何よりも脚本が練りに練られている。それが清順の才能を最大限に引き出す結果につながった作品である。

「フレンチ・コネクション」
1971年  アメリカ 
監督:ウィリアム・フリードキン
主演:ジーン・ハックマン、ロイ・シャイダー、
   フェルナンド・レイ

 「ダーティ・ハリー」と並ぶハードボイルド活劇。まさに辛口で苦い味のアクション映画。冒頭、殺されるフランス人がフランスパン(バケット)を持っている安直さには笑う気も起こらないが、それ以外はあまり文句が浮かばない。
 主人公、通称ポパイ刑事の体当たり演技を楽しめる映画だが、主人公を突き放した目で見る、距離の取り方がいい。米国娯楽映画必須アイテムと訣別し、センチメンタルな場面なし、色気なし。むかつく麻薬密売組織の実体を暴くべく奮闘するポパイが主人公。彼ににあるのは、ただ「捕まえたい」という異常な執念だけ。当然のことながら、彼やその相棒には、麻薬密売人の人権などまるで念頭にない。ポパイはひたすら走る。映画はしつこい刑事の追跡をしつこく追う。薄汚い世界が薄汚いままに描かれる。さらに、最後にはすっきりした気分になれるだろうという観客の期待は、見事はぐらかされることになる。
 まるで教養趣味と縁のない映画なのだが、どういうわけか不思議な格調の高さが感じられる。理由はおそらく先に述べた、登場人物との距離の置き方のためだろう。登場人物にも観客にも迎合する気のない、不機嫌で無愛想な描き方が、妙に新鮮なのだ。

「路(みち)Yol」
1982年 トルコ・スイス  115分
監督: ユルマズ・ギュネイ
主演: タルック・アカン、 シェリフ・セゼル

 この映画は、民族弾圧問題を扱う作品と知らずに見た。この地についての自分の無知を思い知らされた映画である。
 何よりまず、映し出されるトルコの風景にストレートに魅せられる。重い題材を扱いながらも爽快感の溢れる映画だ。さまざまな制約の中で生きる人々を描いているが、じめじめした暗さがない。
 仮釈放中の男たちの、家族愛の深さが描かれる。主人公の1人であるクルド人は、結婚相手を自由に選ぶことの許されないクルドの掟を受け入れる。村と家族のために闘い続けることを決意する。外部から見れば歪なこだわりに見えるものが、内部の者にとっては何にも代え難いものなのであることを、この映画は教えてくれる。
 この映画を見ただけでトルコの現状を知ったつもりになってはならないが、この国を知る第一歩になるのは確かだ。ここには、政治的なメッセージを伝えたいというよりも、この国の現状をありのままに見せたいという切実な願いがある。こうした当たり前の願いがかなえられない自分の国に、監督がどれほどの苛立ちと怒りを覚えたか、想像に難くない。
 この映画に関する情報をネット上で探したところ、本作品がトルコ本国で上映できるようになったのは、何と1999年2月だという。監督は1984年に亡命先のフランスで他界しているが、妻のファトス・ギュネイが映画の一般公開のために尽力していた模様である。
 2001年現在の状況については分からないが、映画のスタッフたちの闘いはまだ続いていることだろう。

「ノスタルジア」
1983年 イタリア 121分
監督:アンドレイ・タルコフスキー
出演:オレーグ・ヤンコフスキー、
   ドミツィアナ・ジョルダーノ 

 揺るぎ無い評価を得た巨匠、タルコフスキーは、案外不器用なところのある人物ではなかっただろうか。彼の映画「ストーカー」の主人公がまるで効率的でない方法で道案内をしていたように、回り道をしながら映画を作っていたのではないだろうか。
 彼が映像にしたいことはあまりに多すぎたと思う。水溜り、雨、雨漏りの水、温泉、湯気、と水に関連するだけでもさまざまな事物を、執拗に描いている。水面に反射する光、登場人物たちの顔。彼の頭の中には、現出させたい映像がいくらでもあったと思う。溢れ出るイメージを愛しむようにカメラは回り続ける。時には反射光が自ずから姿を変える瞬間を待ち続ける。かくしてワンショットが延々と引き伸ばされていく。
 だが、彼の映画はあくまでも人間が主体である。人とのつながりに絶望しながらも、つながりを求めてやまない主人公が描かれる。イタリアを放浪しながら、祖国ロシアの風景と家族を思いつづける詩人と、世界の終末が訪れたと信じて疑わない狂人ドメニコとの、奇妙な約束。ドメニコの遺志を継いで、主人公はろうそくの火を消さないように野外浴場の底を渡っていく。詩人は緊張し、見えない水に足をとられるかのように足取りが重い。
 このシーンは息を殺して見た。そこにこめられた願いや使命の実体もわからないまま、異様な興奮を覚えた。その興奮が、あのラストシーンに続く。

「台風クラブ」
1984年 日本
監督:相米慎二
主演:三上祐一、工藤夕貴、三浦友和

 東京近郊のニュータウンの中学校が舞台。いじめとからかい、どんちゃん騒ぎなど、中学生ならではの支離滅裂な行動の数々が続く。1人の女生徒はふらふらと東京へ家出する。担任教師は一応の仕事はやっているものの、「一応」という範囲外の仕事はやらない。中学生たちは、自分はやりたい放題に振舞うのに、こういうみっともない大人にはひどく手厳しい。
 台風が近づく。主人公の中学生たちは成り行きで学校から帰れなくなり、東京に行った女生徒は列車不通となって帰れなくなる。深夜暴風雨の中で学校に閉じ込められ、生徒たちは興奮するが、彼らのバカ騒ぎは子どもの領域を越えることはない。一夜明け、考えに考えた結論なのか、主人公三上は突如窓から身を投げてしまう。だが、台風一過の中学に登校する他の中学生たちは、至って呑気である。
 脚本が面白いが、独特のロングショット多用の撮影方法、アクの強い脇役たちの妙味、グロテスクなディテールの配置など、相米監督の芸風が楽しめる秀作。情けない顔の工藤夕貴、カッコ悪い三浦友和が抜群に面白い。
 走る女を追いつづけた長回しのカメラが印象的だった「魚影の群れ」は枠組がきっちり決まりすぎていて、この監督得意の支離滅裂なユーモアを盛りこむのが難しかったかと思う。「ラブホテル」(成人映画)や「光る女」の方が重要な作品なのかもしれないが、これは中高生を含め誰もに見て欲しい作品である。

以下、短評なし

「自由の幻想」
1974年 フランス
監督:ルイス・ブニュエル
主演:ジャン・クロード・ブリアリ、
   モニカ・ビッティ、ミシェル・ピコリ

「パルプ・フィクション」
1994年 アメリカ 155分
監督:クエンティン・タランティーノ
出演:ジョン・トラボルタ、ブルース・ウィルス

「用心棒」
1961年 日本 110分  
監督:黒澤明
主演:三船敏郎、仲代達矢、司葉子

「エイリアン」
1979年 アメリカ 117分
監督:リドリー・スコット
出演:シガニー・ウィーバー、トム・スケリット、
ベロニカ・カートライ