Multi Turntable 01
“KID A”by Radiohead

いろんな聴き方、
聞かれ方があるもんだ♪^_^)v
"Kid A"

メンバーのひとりがRadioheadの「音」にはまり込んでしまったことに端を発し、あえて理由を問うこともなく、批評の形式の一つとしてシリーズ化できれば、と思います。

KID-Aこの作品の感想を述べるのは、なかなか難しいものがある。断愚流にて、テーマをいただくまでは聴く機会のないBANDでもあるのだが。
まず、演奏家の立場から、考えさせられる点がいくつかある。

1)このアルバムは、バンド形態を持たず、ひとりのミュージシャンが制作したのか?
2)計画的に、無機質で感性を表に出さないアルバムとしたのか?
3)コンピュータを駆使して、音のレイアウトにより、たまたま出来上がった作品なのか?

不思議なアルバムだ、聴くリスナーの解釈にゆだねる部分が多いにある。コードを決め、メロディーをつけるのか?メロディーを決め、コードをつけるのか?どちらにしろ、コードとメロディーの関係は同じ位置にある。音楽に理論はいらない。音楽(ロックに)理論を取り入れることは、ばかげている。音楽の自由を奪う敵だ。理論はてっとりばやく言うと歴史(心地よい音)の積み重ねである。理論を否定しているのではなく、優先しすぎるとコピー音楽をつくるだけとなる。この点に関してRADIOHEADは、良い意味で成功している。また何曲かに、一般チューニングを使わず演奏するところ、こだわりがあるのも理解できる。また、KINGCRIMSON(fripp)の将棋で言うところの、先手型のアルバムでもない。
かってあたらしい手法を取入れ、リスナーの期待を裏切るような計算されたCRIMSONのアルバムより、RADIOHEADの方が、雲をつかむ感覚で聴いてしまう分、数段できが良いともとれるのが不思議でならない。その答えは、ライブにあるのではないだろうか。
マイク・オールドフィールドのように計算されつくしたアルバムを制作し続け、譜面にしたがい(又は記憶して)演奏するミュージシャンならば、ただの産業ロックバンドの一つにすぎないだろう。このBANDに明確なコンセプトがあり、本質のみを正確に演奏するバンドならば、おどろくべきバンドだろう。個人的にインプロを主体とするバンドでは、ないと思うのだが…。

トム・ヨークは、神経質な宇宙人か?やっつけ主義のおとぼけミュージシャンか?来日時は、足を運ぼうと思うその答えをさがしに。
最後にRADIOHEAD/KID-Aをテーマにしたメンバーへ出会いをいただき感謝する。

SCOPE 寺澤裕久

前作“OK Computer”からの変化を、素直に歓迎するかどうか悩むところ。全般にアンビエント系の常套句が多過ぎると思うのは、自分がシンセサイザーや打ち込みドラムに関心が薄いためだろう。
ただし、アンビエント風になっても、このグループの持ち味である涙腺刺激的メロディーラインは踏襲されている。ウェットなヴォーカルも、キーボードやギターの奏でる音も、人の感情の変化を敏感に写し取るかのようだ。それを曲構成の中で見事に生かしきる実力には脱帽するしかない。細部まで綿密な音作りを心がけ、アルバムテーマにそって自然な盛り上がりとまとまりがある。個人的には前作の路線の方が好きなのだが、やはりこちらの魅力にもつかまってしまう。
特に6曲目にノックアウトされてしまった。といってもこの曲は力強く弾き下されるギターをフィーチャーし、ドラムも元気一杯で、彼らの昔からの持ち味を生かしている。
もの悲しさは控えめにしたアップテンポの曲で、やはりメロディーが美しい。けっきょくこの路線の方が彼ららしくていいと思うのは、彼らに言わせれば「保守的」ということになるだろうか? だがこの要素がなければ、凡庸なアンビエント風定型句の反復になるだけと思う。
前作ではピンク・フロイドを連想することが多かったが、このアルバムではそれがない。類似点があるとすれば、テーマ性のあるアルバム作りへのこだわり方だろう。
書き始めはそうでもなかったが、けっきょく Radioheadには絶賛に近い言葉ばかりが浮かんで来る。人気も完成度も抜群で、順風満帆。久々に尊敬の念を抱くバンド。もっと前からちゃんと 彼らのアルバムを聴くべきだったと反省している。

岡崎 凛

"OK Computer"

普段音楽をじっくりと聞き込む時はアルバム・ジャケットを見ながら(そこに描かれているデザインや文字を読みながら)聴くのだが、今回は音源のみ(もちろんアーチスト名と曲名は知らされているが)だったこともあり、私の貧弱な想像力では大しておもしろいコメントが書けそうにもない。それでも単純に感じたことを書きたいと思う。まずは各曲のイメージを。

1)Everything in its right place
エレピのようなシンセサイザー音が印象的なオープニング曲。曲の構成は単調。
2)KID-A
ドラムがリズムを刻み、一部にベースが入る。ボーカルはロボットボイス。何を言っているのか?
3)The national anthem
ベースとドラムが曲を引っ張る。ボーカルと同期するホーンのようなシンセサイザー音が印象的。本物のホーンも入っている。テルミンの音が隠し味。曲らしい曲。放課後のクラブ活動の練習風景が思い浮かぶ。
4)Hoe to disappear completely
ウォーキングベースとアコギ主体の牧歌的な曲。バックのシンセサイザーの音が心地よい。曲らしい曲。
5)Treefingers
シンセサイザーが幻想的な曲。
6)Optimistic
ファンキーなリズムにファズギターがからむ。曲らしい曲。
7)In Limbo
ギターのアルペジオが印象的な変拍子の曲。
8)Idioteque
ヒップホップ系のリズムマシンの音が耳に残る曲。
9)Morning bell
5拍子の曲。ドラムのリズムは鋭いがボーカルは逆にけだるい。
10)Motion picture sound track
エンディングを飾る静かで美しい曲。オルガン、ハープのような音が印象的。一度曲が終わってから約1分後にシンセサイザーの音が入っている。

最近はじっくり音楽を聴く時間がなくなったせいか、ポータブルCDプレイヤーで通勤途中に聴くことが多くなった。あまりいいことではないが致し方ない。こんな環境下で、このアルバムは読書のBGMとして聴くのにちょうどよいということがわかった。夢中になることもなく不快に思うこともなく、ちょうど真ん中当たりを飛んでいるといった不思議な感じだ。特にミステリー、推理小説にはバッチリはまった。
テルミンを使ったり曲がマイナー調だったりして怪し気な雰囲気を醸し出している。おかげでこのアルバムをかなり聴くことになった。
犯人は少年A?

藤中浩樹

"Amnesiac"

気鋭の若き音楽批評家、小野島大に因ると若き何処にでもいるバンドであったころから、トム・ヨ−クは「懊悩する孤高の天才詩人」という評価を得ていたそうだ。当時は、「いい曲、いいメロディを歌い、演奏するギタ−ポップバンド」であり、保守的でさえもあり、トラディショナルなバンドでもあったとされる。言い換えると、やたらな破壊性を持ったバンドではなく、問題意識をもちながらそれを押さえた「表現」の出来るバンドだった。初期“Pablo Honey”では、何処にでもいるギタ−・ポップ・バンドでもあり、トム・ヨ−クの「懊悩する孤高の天才詩人」というポップ界での評価が、バンドとしてのそれを凌駕していたようだ。
小野島大は、このアルバムについて、甘ったるいロマン主義、過剰なドラマ主義として“Kid A”との比較で否定的に、あるいはそれらを乗り越える過渡期として論じているが、この評価軸はどうかと思う。バンドの音が、進展していくことは、このポストモダンの時代にあっては、無いと考えなければならない。すべての価値観が、崩落し、以前の中心が瓦解し、崩れ去った時代に、「進展」という概念は、すでにそれほどに相応しくない。バンド内での「進展」はあっても、その「外」の嗜好と思考は、様々に成り立ち、既成と新しいという感性は、すでに無いに等しい程に、渾沌と輻輳に跪拝している。半可通として言わしてもらえば、批評の主軸は、表現の総てにおいて、無ければならないが、中心的にあってはならないのである。

“OK Computer”。
Radioheadの何枚目かのアルバムである。このCDを何故買ったか、特別な記憶はないが、語りうることはある。
ロック的展開がなされている。ドラムのよさ、ギターは、イギリスの暗めのト−ンでありながら、インディ−ズの質のいい伝統がある。これは、前作“Bends”は佳作であった、乗りのいいギタ−ポップのバンドの良さを引き継いでいる。ノイズの使い方の美味さ、構成の卓抜さ、「曲調」作り上げに、広がりが“Bends”に比較して優れて生まれた。ストリングスを使えるバンド。頑迷な暗さではないが、透明感がある。ポップ・バンドで、「生かして」おきたい音楽が作れるバンド。単なるヒット曲で終わるところがない。
繰り返して聴いても、そのつどの新鮮さは落ち無いとは言えないが、それはポップとしてロックとしてキャッチ−な曲調を作らなければ「聴衆」を掴めないことからくる必然の要請。忘れられることがあっては生計を維持することも不可能に近い構造的現代では、この方法も必要だ。これがポップの限界でもあり、また運動性でもあることは視ておく必要はあるだろう。さながらそれは現代資本主義が作り上げた強靱なイデオロギ−的幻想である「職業」としての「音楽」の行き着く果ての実体性だ。が、秀逸なバンドであることは間違いない。

「Airbag」
ストリングスが入り、レディオヘッドの三つのギタ−にひとつが奥の方で、メロディ−を採り、ドラムの鼓動が、変則的にリズムを採る。トム・ヨ−クの独特な声質のヴォイスが、ヴォ−カルとしてカバ−していく。そして、ここからが「美」に単調なポップミュ−ジックと異なり、偏重のノイズが狂おしく、入り込む。基調音は、“Bends”のころからの、際立った曲作りのセンスの良さからくるメロディックな音構成にある。

「Paranoid Andoroid」
引きつったギタ−エフェクトが、美しい旋律を掻き消し、ノイズギタ−が背景に決してでしゃばるわけでもなく、ノイズに麗しくしっかりと自らを叙情的に重量感をもって歌われる。そしてまた、トム・ヨ−クのヴォ−カルが、息苦しく入り込み、歌われて、そして突然この曲は、終わる。

単に「表現」に相応しい陶冶と錬成が、いじらしいほどに求められるだけなのだ。音楽のみならず、批評の軸は結果的に、三つしかない。物語的であるか、反物語的あるか、非物語的であるか、であり、この軸は、リズムについてもいえる。そして、表現者の表現に向かうスタイルと精神が、こちらの「現代」と「反現代」の緊張に堪えているかどうかでもあるのではないか。

トム・ヨ−クのスタンス、高揚を押さえながら、歌いだすスタイルも、好感と好印象が持てる。が、その声は、生の声ではなく、苦しげな発声にエフェクトがかけられ、ずたずたに切り裂かれノイズが被さる。シニシズムの声。ギタ-も引きずるような音仕上がり、リズムも変則を越えて、投げやりでさえある。

「Electioneering」
パンク的なギタ−で始まり、Radioheadの独特なダンスミュ−ジックとして展開され、ドラマティックなギタ−音楽としても終わる。

プログレが、ポップシ−ンから姿を消して久しいが、11曲目「Lucky」、12曲目「The Turist」など、良質なプログレバンドが持っていた、ドラマティックである物語、リリシズムの叙情的展開を思い来させてくれた。
9曲目「Climbing Up The Walls」に視られるように、その展開を破壊していく姿勢も見れる。これは、シニシズム的なドラマの展開である。曲を作る、作曲することが巧みであり、それに対する価値を認めていなければ、プログレ的メロディアスな展開は図れない。構成的な曲を否定しなければパンク的であり得ない。音の響きに繊細でなければ、メロディアスな曲も作れない。音の響きを、削らなければパンクとはならない。曲づくりの技巧に長けなければ、メロディアスな展開は望めない、技巧の拒否がなければパンクであり得ない。パンクの潮流がなければ、ノイズギタ−の全盛はなかった。
それらの意味で、メロディアスでありながら、ノイズであることは、パンクであると同時に、プログレでもある。この中々困難な両義性を、秩序付けたのは、「いい曲を作りたい、いい音楽を作りたい」というごくありきたりな、彼らの変わってはならぬトラディショナルな、保守的意志であった、といいきれる。しかしながら、そのいい音楽の中身は、ロックの成立根拠から、ロックの音楽的在り方に至までの「疑問」形が、あるのだと思わざるを得ない。
ただ単に、ノイズが好きだという形で、またプログレが好きだという形で、彼らの「表現」が提出されているとはどうしても思えない。商業主義に対する「疑問」、パンク的なアジテ−トに対する「疑問」、グランジへの適応可能性の歪んだ拒否、プログレ的展開に対する問題視、ポップに対する拒否感とある種の諦念、ミュ−ジック・コンクレ−トに対する音楽的な誘いと拒否感…。それらの輻輳的な像が、彼らの音楽を支配している。それは、旧来からのプログレに視られるような、単一な価値観が支配している「音楽」とは決定的に違って、シニシズムが中心的に支配しているようだ。それは、旧来からのあらゆる音楽形態から距離をとらせ、「いい曲を作る」という意志に媒介され、自らに取り込んでいる。あらゆる音に距離感をもって、接している音楽となっている。

"Pablo HONEY"
"the bends"

“Kid A”“Amnesiac”を中心に
Radioheadは衆知のように、“KId A”で、全米1位、英国1位のビッグ・ヒット・バンドとなった。巷では、これが何故ヒットしたか、疑問であると聴くことが多い…。しかし、Radioheadに共感するもの総てがそうであるとは、思わないが、私としては「シニシズム」の支配が、彼らとは別の形で生まれ、いつかそれがぬぐい捨てられるとしても、聴衆に存在していると考えられうる。

浅薄な知識から言っても、“Kid A”“Amnesiac”は、現代音楽のミュ−ジックコンクレ−トの分野に収まる。似たような音楽を現代音楽以外に強いて探すと、筆者が聴いた中では、ポップの世界ではハウス音楽、ダンス音楽にあり、ロック畑にはない。それはovalとAutechreが挙げられる。ovalはドイツのハウスシ−ンから生まれた秀逸なテクノ、環境派ミュ−ジック・コンクレ−ト・ユニット、Autechre はUKのダンスシ−ンから生まれたリズム無き、ハウス・クラブ・ミュ−ジックを響かせる奴等。現代音楽の用語でいえば、やはりミュ−ジック・コンクレ−トの分野、もしくは、Brian Enoのアンビエント・ミュ−ジックにいれるべきかもしれない…。これらの音楽に、明らかに影響を受けている。いや、“Kid A”“Amnesiac”は、そのクラブシ−ンにあってはありきたりな、乗れない音を、ロックという「保守的」な音楽にとっては「前衛」的な試みの音楽を、ポップ・バンドとして掬いとり、「いい音楽を作りたい」という素朴でありながらも伝統的な「意志」によって、「バンド」音楽に「固執」した環境「音楽」、「家具の音楽」といったほうが適切だろう。
OvalにしろAutechreにしてもバンドの体裁は採ってはいない。彼らのようなダンスとかクラブに共感する者たちには、すでにそんな形態に対する「固執」は、古くさい化石以前の、「前衛」にとっての、お荷物に過ぎない。全英1位というセ−ルスは、クラブ・シ−ン的感性から出来上がったとシュミラクルと言える面も持っているのではないか。直観的な言辞でしかないが、シュミラクルは“Amnesiac”――健忘症――的な結果を齎すのである…。

UKのメジャ−シ−ンにみられた荒唐無稽、スト−ン・ロ−ゼズのメディアに対する挑発行為。話題作りによるセ−ルスの拡大の見え透いたやり方、オアシスの兄弟げんかの芸能界まがいの喧嘩、などなど。これもまた面白いのだが、こいつらの、トラディショナルな「意志」を忘れきった感受性だけの「不良」ガキどもの作る、「聴けない」、話題性先行の「音楽」と引き比べるとき、Radioheadはやはり伝統的な「知」と「意志」を持っている「不良」であることは至極確かなこと、だ。そしてこの「意志」と「知」が、常に基本にあるかぎりは、他の音楽をこなしていくだけの力量と「流行」のとの離反ある接合も、なされていくことだろう。可能であれば、音楽メディアと、ファンの下らない望みと非難など媒介的に否定し、ポップでありながら、そこに異質であることを確保しつつ臨んで行ってくれたら、と望む。

「意義」と意味付けから逃れた音楽が、「環境音楽」であるとするとこの意味でこの範疇が該当する。ロックという「西欧」的な音楽の立体性の「脱構築」が、測られている。なんでも音楽は、楽しければいいというスタンス、そこにはひとつの同意は持つが、同時にそれであるかぎり、「メジャ−」的感性の「脱構築」も敢行されなければ、ひとつの押し付けられた「価値観」からも自由にはなれない。
“Kid A”“Amnesiac”は、「表面的」には、「癒し」音楽だともいえる。しかしポップバンドでありながらPop is dead――1993年の“Pablo Honey”に収録されている――と歌ったシニカルなバンドであることを見れば、“Kid A”のEverythingis in its right placeは、デビュ−当時からある痛烈な皮肉の形象だ。すべては的確な場所にある、という認識からは、破壊性や情動性、躊躇いや逡巡、怯えやおののき、そしてシニシズムは聴くことは出来ない。しかし、私などは、蠱惑的、魅惑的なトム・ヨ−クのヴォ−カル無きヴォ−カルとJonny Greenwoodのキ−ボ−ドというよりそのくすんだ音作りに引き裂かれた形として魅了されてしまう。
ヴォ−カルという文脈ある存在を、ずたずたに切り刻み、ひた向きな「いい曲」への景象を、「意志」を、ひた隠しにしてトム・ヨ−クの声としてのヴォ−カルは響く。そこには環境と化した、自分たちの位置が切れ切れに、断片化してしまった美しいまでの形骸を視る。細切れの自分たちとそれを映す壊れたガラス質の環境が、解体的に蠱惑である。Everything is in its right place総てが、その適切な場所にある。この言辞が、虚構として、成立する。そしてこの構え方は、ひどくあまりに東洋的だ。そして環境的音楽の思考を示している。
ケ−ジは、音楽の偏在をいった。総ての場に音楽があると言い換えてもいい。その到達した「思想」から、衆知のように、彼は東洋の「鈴木大雪」の思想に行きあったった。あるゆる犯罪から、テロ、社会問題、政治問題まで含めて、日常の瑣末な事情総てにわたって、適切な場にあるとすることも出来る「思考」であるだろう。この構え方は、政治的、社会的には、保守的な態度を齎す。何も変えることがないという結論が導かれ、泰然自若とした中に、世の中の「動き」「不正」など総てを、動かさない働きに組みするからだ。しかし、Everything is in its right placeである状態にまで、「いま」の社会、政治が至っていないという認識を、逆説的に、シニシズムに乗っ取って、表現したものであるとすれば、この言辞ほど、ダイナミズムを持つ言辞として振る舞うことはないのではないか。自我の運動に対する信仰が解体し、等閑視している環境音楽、「家具の音楽」で、Everything should be in its right placeという「義務」という「意義」は、歌えない。むろん、「should」は神からの宿命という「義務」であるということを考え合わせてもである。

これからもRadioheadがトップシ−ンを奔り続けるとすれば、初期の“Pablo Honey”、“Bends”、中期“OK Computer”、後期“Kid A”と色分けをしなければ全体像が掴めないバンド。
「前衛性」をもちながらもマイルスとキングクリムゾンは色分けが出来る複合色を持つ存在である。それだけメジャ−の前線で、活躍する期間が長かった、希有な「前衛性」を持った「メジャ−」的存在だ。多くの「メジャ−」であることに自足的に満足しているバンドは、作品を出していく途中で染色が不可能であり、単色である。色分けが出来るほどの長期の間、活躍できないということだ。それはバンドや、中心人物の「前衛的」姿勢の維持の才能に因るところが大きいと言わねばならないが、色分けが出来るほどの長期の音楽業界での表現活動を保証するほど、メジャ−レ−ベルは待たない。「業界」の事情による「売れる」CDの脅迫的な制作の事情の方が遥に大きい。
余談になるが、93年頃から、「音楽業界」は、バンドの「批評」「批判」を掲載する音楽雑誌に広告の取りやめという圧力をかけるケ−スが増えてきたという。そこで「音悪」カタログ雑誌の興隆?が、音楽業界の「指導」で演出されたわけだ。「流行」の取っ換え引っ換えと、持ち上がってきた薄い「流行」を追い続け流通させること、交換価値を異常に高めるための虚像の作り上げ、プロモ−ション、大受狙い、セ−ルスのための市場調査、等々余念が無いことには大量の消費と即事の廃棄は成立しない。一定のセ−ルスを続けるためには、薄っぺらな「流れ」に乗ること、それを廃棄することの繰り返し、後ろめたさをもって居るいとまもない。それほどの中身のない流行の「天才」は、皮肉ではあるが、アンディ−・ウォホ−ルぐらいの「天才」でなければかなわないことだろう。大概のものは、「売れた」形式を守っていくか、「売れた」形式を暫時に変えるか、その方法しか多くのものはとれない。
「流行」は一時の「天才」を生むが、時代の空疎で表面的な速度と、まして「構造」を変えることは出来ない。薄っぺらな「流行」の形式と感性を残すだけだろう。
メジャ−の独占の解体か、資本主義の解体か、現状の価値観の解体がなされなければ、「中央」の支配の怪物は、のさばり続け、また薄っぺらな「音楽」の大量生産の解体は不可能だ。「流行」は、それ自体動き回る、吸引力のある面白い「中心」だとしてもである。

1993年に「Pop is dead」とデビュ−時に、陳ねくれて歌い込んだバンドは、今やメジャ−シ−ンの中心の一角を占めるまでになった。「懊悩する孤高の天才詩人」は、こういった事態を望んだのだろうか?増えるファンとその望みと期待に、どのように応えるのだろうか。頂点まで登り詰めた若き表現者の在り方は、凡俗の予想を超えて、屈折し虚ろな空虚感と人知れない苦悩さえ持っているのだろうか。
「よい曲を作りたい、いい演奏をしたい」という古典的でさえある、ありきたりな意志と音楽的な前衛と見まがう音の変遷は、両義的に成立する。前衛であるということと古典的であるという緊張が、このバンドにあれば、トップのシ−ンでやり繰りできるのだろうか。「懊悩する孤高の天才詩人」とそれを支える仲間の連帯の喫水線は、まだまだこれからざわめき続けるのだろうか。

解龍馬

Limited Edition

WE WILL NOT HESITATE TO CARRY OUT WHAT HAS BEEN THREATENED
THIS IS NOT OVER UNTIL ABSOLUTE UNCONDITIONAL SURRENDER
AND COMPLETE MEETING OF ALL DEMANDS
THERE WILL BE NO FURTHER WARNING WHATSOEVER
AIRSTRIKES ARE IMMINENT

“Kid A”album jacket より