Ikareta Minsyusyugi

 
 

今回のイラクへの米国軍の攻撃は戦闘行為と直接の関係を持たない「市民」の安逸と戦闘に直接携わる軍人の危険とが、完璧に乖離している。軍隊は「市民」の安全を守ることを本義とし、それに応ずる軍人を「市民」は、栄誉と最大の経済的精神的賛辞もって迎えなければならない。市民の安逸は、軍人の「危険」を担保によって、国家的に保護される。それが近代国家の国家たる存在理由の擬制のひとつだったと思う。
にもかかわらず、「市民」は、TVと言うメディアによって、自国の戦闘員の爆撃を、「痛み」を伴うことなく、眺める。
米国の戦闘員は、イラク「侵略」戦争を、彼らイラクに「民主主義が無い」、よって軍事的独裁者フセインをその国の外から「民主主義」を樹立するための世界「正義」の戦いだと言う擬制を呑み込まされる。大量破壊兵器を廃棄させると言う、民主主義的正義を掲げ、「侵略」するのだから、自国を守るという視点が全くと言ってないのだ、いや持てない。テロに対する防御としての戦争など理屈の上で成立しない。
イラクに対する戦闘は、国家の戦闘原理からも、遠くかけ離れた「民主主義」による、「民主主義」の謀略的「侵略」だといっていい。嘗てのどこかの国の「大東亜共栄圏」の樹立の方法に、論理として同一ではないか。
我が軍事同盟国?、米国政府は、"DU"によって、その軍事の戦闘要員、米国市民にまで、その擬制と犠牲を強いている。そして、自国決定権を越えた軍事行為は、やはり、「侵略」であって、たとい、その相手国が極度な独裁国家であっても、その原則は踏み越えることは出来ない。踏み越えないほうが、踏み越えた場合と比較して、その当事者である国民と国家にとっても望ましい「情況」が生まれる可能性の方が高いと思う。そのための「国家」は有効に機能しうるしかない存在だから。

ともあれ、この国の政府は、米国支持をしないほうが彼らの言うところの「国益」もなる。
原油の高騰があるだろう。インフレタ−ゲットなど日銀がしなくたって、ほんとのコストプッシュインフレが起きるかも。株のさらなら下落とその心理的あおりが、齎されるだろうか?金融崩壊と国債の暴落による、ハイパ−インフレがあるかもよと囁かれる。中小の雇用もさらにしぼむのだろうか?
米国支持なんて、「国益」に何もならないよね〜。

2003.3.12

 
 

ついにイラク開戦ですね。ブッシュの演説では、イラクから独裁者フセイン一族を掃討し、イラクの市民を独裁軍事政権から解放するため、また米国の国民をテロから守るための史上稀に視る「正義」による「解放」戦争という位置づけだった。その位置づけに積極的に参加支持する史上稀に視る小泉政権は、全く「国益」を考えていない、愚かな政権として位置づけられることになるだろう。
「正義」を語らない「戦争」など、この歴史上あるはずが無い。それ故、「八紘一宇」の正義の解放思想による「大東亜共栄圏」に参画した旧陸軍とその残滓どもは、未だに、そして歴史的必然としてその行為に、国家的敬意を持っている。
ロシア、中国は、確か米国のイラク攻撃に、言葉を濁しながらも、はっきりとした態度を取らずにも「反対」ではなかったか?
「北朝鮮」の問題は、米国と我が国だけでとても解決できるものではないだろう。中国、ロシア、韓国との関係が重要視されなければ、とても解決できるものではないだろう。あれらを外交的戦略的に「味方」につけなければ、ならない。そのためにも米国支持は、いかにも早計だった。その程度のことも、小泉政権は理解できないのだろうか。その程度の「現実」認識も彼ら保守は、持てないのだろうか。保守の発想が、冷戦崩壊後、ここんところ歪んでいる気がしてならない。
日米安保の外的条件も、ソビエトが崩壊し、中国が実質「市場型」経済を導入してから、変質した。それと同じく、自衛隊の存在根拠も変質した。変質の方向は、体制の違いに基づいた冷戦によるデタントでは無く、各国間の緊張によるデタントに向かうことになった。
ポスト冷戦は、多くの者が指摘するように、民族、宗教、文化的相違、地域間経済格差、国内での中産階層と低階層による「思考」の一般的な違い、などのポストモダンの情況に収斂していく、回路がよりベクトルを鮮明にしていくことにある。紛争や諍いが、拡散しやすい情況にある。冷戦によるデタントより、ポストモダンの状況下でのデタントの方が、制御するに困難であることは容易に分かるだろう。
さらにこの状況下では、「主体」が主体であることは、「思想」を媒介としなければ、単なる跳ねっ返り、もしくは同調圧力としてしか、「主体」は役割機能を果たさない。湾岸戦争後、我が国は、この主体を鮮明にすることを、米国に同調する、米国の政策を積極的に「支持する」ことによって、「主体」を取り戻そうとした。それは小泉のブッシュとの関係の演出に明らかだ。しかしそれは、「思想」として湾岸戦争以後本格的に「主体」を形成したものでは無かった。積極的にまた即座に決断し、同盟国として支持することが、「主体性」の全てではない。
同盟国間でも態度保留、言葉を濁し続け、罵られ二枚舌としても「主体性」は、「思想」と現状「認識」を以て保持で為きれることもある。「思想」的確信を背景に持たない政策など、判断力無き迎合主義者以外誰が支持だろう。
「主体」であるとは、出来ることできないことの明確化が、「思想」下に明らかになっていなければならい。なし崩し的にシ−レ−ンを拡大し、PKOの議論が、「憲法」を範囲をハミだすまでになり、イ−ジス艦の派遣まで、今度のイラク侵攻に折り込み、縛りが効かなくなってしまっている。それらは、迷走する、非立憲国家と言っていい。非立憲国家は、迷走を「私権」にまで、範囲を広げるだろう。
小泉は、マス・メディアの名誉棄損額を数千万にまで引き上げる法案を検討中らしい。法案の内容は詳しくは知らないが、公の職に就く者に、名誉棄損など付きものであり、私人たる民間人に対する棄損額を引き上げるのなら理解できるが、どうせそう言った「正義」の発想など奴等にあるはずはなかろう。

長々と書きやしたが、俺的にはこの政府相当に「いかれた」政府だ。

2003.3.19

 

 

しかしアメリカも露骨になってきたね。
言うなれば、手を挙げろ!武器を捨てろ!と言ってから撃ち殺す訳やからね。
サダム・フセインは決して褒められた人物じゃないけど、ホンマにこの「独裁者」とその一族からイラク国民を解放したいんなら、それこそアメリカお得意のCIA暗殺部隊かなんかがウラで出張りゃ済むでしょ。
でもそれじゃあ、イラクの石油利権に口出せないからね。
世界最大最強のならず者国家に追従している、世界最悪の太鼓持ち国家に住んでる我々としては、そりゃ、精神も蝕まれるし、イタズラに歳も喰う訳よ。
こりゃ、もしかしたらホンマにやばいかもね。
世界最悪の似非社会主義似非映画好きエロ親父国家に鉄砲丼喰わされたって、アメリカは助けてくれんよ。外交努力が嫌いな国家だって証明されたんだから、とりあえずトマホーク打っとけやっちゅう感じやろな。
ロシアとか中国とかの協力こそいるのにね。それもおじゃんやし。
トマホークといえば、アメリカ先住民の生活道具であり闘いの武器であったわけで、そういう名前もってくるのもあざとくて吐き気するよね。
まあ、まだ死にたかないし、中信や京銀の電算センターとかがピンポイントでやられたとしても、(ちょっと不謹慎に心の中で快哉を叫ぶ可能性はあるにしても)戦争は嫌だよね。ワシら、打たれ弱いしね。

2003.3.21

イラン恐怖戦争に正義があるなら9.11にもそれ以上の正当性を認めたくなってしまう。

あれは、人と人ががお互いに助け合うための保険や、お金の足りない時にゆとりある人から借りる金融など、本来なら多くの人に役立つ筈の制度を一握の者の金儲けの手段に転化し、多くの「貧しく遅れた(グローバリズムの名のもとで)」人達を苦しめる仕掛でしかなくなった金融保険の象徴を、蛆虫のように思っていた連中が羽根を生やしてピンポイントで攻撃してきたようなものだろう。茂みの中のポールを白昼公然と潰されては感情的になるのは分らんでもない。

アフガンのついでにイラクもということなのか、アフガンでは得る物がなかったのでイラクで戦利品を手に入れようということなのか、正義はなくとも利益はあるだろう。時が経つほどに9.11との対比が鮮明になってきた。フセインは民間人を盾につかっていると言われるが、WTCビルが火災で崩壊することを知らずに消防士を突入させたのか、手抜工事で崩落したのか知りたいところだ。少なくとも、アフガンやイラクの人たちの命より9.11の犠牲者の命の値段は高額なのだろう。

イラクの次は北朝鮮というのが当然のプログラムように言われている。日本にとって最も緊張感のあるところだし、自分自身、基地のそばで生活しているのですぐに生活に影響する惧れのあるところだ。ただ、イラクなどと違うのは南北に分断されていることで、韓国の意向なしに好き勝手に第三国が侵攻することなど許されないだろうし、韓国が黙認するような事態に陥ったとするなら、他国の力で国を統一したなどと言われぬよう面子を保つ方策も必要だろう。

これまで一番身近な戦争というのはベトナム戦争くらいしかないのだが、これも遠くの出来事で、たまに薄汚れた太い機体を揺すりながら米軍の輸送機らしきプロペラ機が頭上をフラフラと通り過ぎていくのを眺めていた程度のものだった。これが、米国が北に対して先制攻撃したとなると、対岸の「同盟国」は最前線であり、日本の前線基地を叩く方が同朋を殺戮するよりも遥かに大儀が立つし、米国本国に攻撃をかける能力などテロとされる程度しかないのだから、北朝鮮としては反撃のために堂々として我が家の近くにミサイルを撃ち込むことができることになる。

朝鮮とドイツを比べても仕方ないかもしれないが、アメリカに素直に反対するドイツの態度から考えると、「国益」というのが利己的なものとして、強大な統一朝鮮が出現するよりも、分断されたままに弱体化することこそ米国と日本の国益とみているのかと想う。

国の財政が破綻に近づいたとしても、昨今の税制改革で高額所得者の納税額や資産の贈与や相続も優遇されているし、住みよい国になっているのだ。そのうち、戦争費用を値切る替りに失業者や低所得者を戦後処理のために海外派遣するようなことになると、応じざるを得なくなるのかもしれない。

2003.3.23

 

この戦争は長引のでしょうかね。
イラク戦は、湾岸戦争とある点で違っている。酒井啓子が言っていたようにイラクの庶民にとって「祖国防衛」と言う色彩を持ってしまった。
サダム・フセインは、イラク庶民にとって独裁者であると同時に、列強からの「解放者」と言う側面も持っており、そこに守るべき者に、イラクと言う国を守る神格にまでなってしまう可能性まで残されている。サダム・フセインが、暗殺され殺されたとしても、「祖国防衛」と評価出来るまでに、戦闘性が強まればサダム・フセインは、「英雄」になる構造を、この戦争は持っている。
この、日本以外の国は「ナショナリズム」があり、たとえ建前でも、国(この場合、生まれ故郷に近い共同体)を愛するという基本姿勢に時として熱狂するという点で、それほどの変わりがない。そこに、イラク側にとって絶好の「敵」が、先制攻撃をしてきた。誰だって正当でない侵略者を「殺してやる」と思うだろう、殺したほうが「正義」たる根拠を獲得すると思うに違いない。「正義」の正当性は我にあり、だ。その根拠を米英軍は、先制攻撃によって与えてしまった。愛国的求心力が、そこに働かないわけがない。
「祖国防衛」に庶民、主に男どもは「英雄」崇拝や「勇敢」であることに、あろうとすることに、誇りを持つ。湾岸戦争以来、かなりの期間、米英の「経済封鎖」によって彼らは虐げられてきたと言う思いはある。イスラムの教義のひとつ「眼には眼を」の実技を、「悪」すなわち米国と英国に、戦闘として示すには格好の場だ。イスラムの外からの「悪」には決定的に闘うことを教義のひとつは示しているから、教義との一体化を得るには絶好の現場になる。「聖戦」と言う言葉が、確実に血肉化する。

「近代型」の戦闘要員が、手を焼き、極度の恐怖と緊張に陥るひとつが、古くは、旧日本陸軍が中国での戦闘で出くわした一般人になりすました「民兵」であり、ベトナム戦争で出くわした「ベトコン」である。そして、その背景には、完全に、彼らに、侵略に対する「義」があること、だ。
今回のイラクでもこれは、かなり生きるだろう。米英の軍人には、さらに「市民」を、殺戮してはならないという義務さえ負わされている。ブッシュの今度の戦闘の位置ずけがイラク市民をサダム・フセインの圧制からの「解放」としたことにより、無差別に殺してしまえば、言い訳が立つわけがない。
が、ここからが「現場」にいる人間どもの恐ろしいところで、民兵と一般市民が表向き区別がつかなく、また、前線にいることによる疲弊と混乱から、また、殺られる前に殺れとする米国の論理が、一般市民と民兵を無差別に「殺害」していく可能性が十二分にある。
TVで視た範囲では、イラクの庶民の米兵に対する反発は相当に強いように思える。そうであれば、言うことを聞かせるため、凶暴な姿勢にでるほうが相手を屈服させやすい。その選択は、極めて容易で、先守自己防衛からも「正当性」を持つ。

アルジャジ−ラの報道と米国経由の情報が入り乱れて、デマと狂信−−しかしながらそれは「人」のまた執り行うことのひとつ−−の空虚な空中戦が行われる。どちらが、「残酷」に殺しているか、どちらが間違った空爆を行ったかのデマ「情報」の伝達の仕合だ。アルジャジ−ラのネットがハッキングされた、いやそれは、自作自演であった……。などなど…。
所詮そこに、「情報」など無い。負の「情報網」があるだけ、だ。全くのシュミラクルの戦闘としか言えない構造が出来上がる。敵が敵の構造を真似し、映像のハッキングと意味付けを裏返しにいていく。トラップの応酬に、明け暮れ、シュミラクルの相似形の空中戦、だ。
「観戦」しているこちら側が、推測に弛緩して酔いしれる……戦闘現場が映し出され、報道の名を騙った「大きな物語」の断片を視覚に収めることになる。単に自陣の鼓吹に都合のよい戦況の「宣伝」、それでしか近代戦争ではあり得ないのだろうか。捕獲数、「殺戮」−−今のところはこの競争はないが−−数の謳い上げと、諸々の前線拠点、通信設備の破壊、またその数のカウントが、「冷酷」に弾き出される。
「数」は、こうした場合、「鼓吹」の基本として働く。戦闘という、現場では特に「心」を持っていては、闘うことは出来ない。冷酷でなければ、「情況」の把握はできない、戦闘に陶酔する「心」と入れ変えねばその実行の継続は難しい。一切の感情は、憤りと陶酔に向かわされ「敵」の「捕獲」に向けなければならない、そして、さらには、「殺戮」に向けなければならない。そして「殺戮」したこと「残酷性」に、「陶酔」を求めなければ、前線では生き残れることにはならない。
おそらくは、そうした、勝手な「想像」と推測が、現場での「真実」に近いところを得る「方法」のひとつだろう。

2003.4.2

「解、浦島、土倉」筆

いかれた民主主義2