キース・ジャレット Keith Jarrett

「ケルン・コンサート」
 ピアノ:キース・ジャレット
「スタンダーズ・ボリューム2」
 ピアノ:キース・ジャレット、
 ベース:ゲーリー・ピーコック、
 ドラム:ジャック・ディジョネット
「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」
 ピアノ:キース・ジャレット
(いずれもECMレーベル)

 キース・ジャレットのソロをはじめて聴いたとき、誰もがその美しさと荘厳さに圧倒されるだろう。だが、だが聞き手を退屈させてしまうのもこの荘厳さだ。充実感のない、空虚な荘厳さ。もちろん、彼のピアノソロ全般について言っているのではない。彼のソロには、ときにイマジネーションのネタ切れが感じられるということである。あるライナーノートで油井正一は、「サンベア・コンサート」を酷評して「まるで落書きのような」と表現している。確かにソロピアノにおいて、独り言のような演奏がなくもない。ただしどんな場合も、キースは常に集中力の全てをつぎ込んで演奏を行ない、手抜きの演奏などあり得ない。探求心溢れる演奏ばかりであり、自己の内面へ、さらに奥へと進みたいと願う彼の思いが常に感じられる。

「ケルン・コンサート」

 聴衆が瞼を閉じれば、そこに限りなく続く白い風景があるだろう。これほど視覚に訴えるピアノも珍しいと思う。このアルバムの精選されたメロディー・ラインと穏やかなリズムからは、限りないイマジネーションが感じられ、マンネリズムが微塵も感じられない。キースの内面を辿りつつ、高い空へと突き抜ける爽快さがある。自己の内面追求に終始する作品よりも、彼独特の語りかけが感じられる演奏のほうが、はるかに聴衆の心を魅了するものだと思う。キース・ジャレットにとってソロ活動は、自己の解放を目指しているようだが、ときには苦行のようでもある。彼の心の奥にさまよいこんだまま終わりになっている演奏もある。

「サン・ベア・コンサート」
   
ナゴヤ・パート2B。

 その弾き始めの部分が想起するのは小川のせせらぎだろうか、それとも木漏れ日の温かい光だろうか。いずれにせよ、聴衆はきらめく世界に足を踏み入れたような錯覚を覚える。弾き手とともにその奥へと進み始めたかと思うと、その歩みが急に止まり、聴衆に見えかけた世界は弾き手の内側へと吸いこまれ、とぎれとぎれの和音とともに消えていく。その和音はまるで、歩みを止める者の躊躇いがちな足音のように響く。眺め続けたかった世界への未練を捨てきれぬままに、このアンコール曲は終わる。聴衆と弾き手の一体感と乖離。始まりかけた夢を剥ぎとられたような、不安定さ。この曲についてだけ言うなら、何か釈然としない思いばかりが残る。聴く者の心のバランスを奪うこのような仕掛けは、おそらくキースの意図するものではないだろう。だが結局のところ、せっかく描き始めた素晴らしい絵を暗幕で覆うような、中途半端な構成に思える。ドラマチックな展開をあえて避け、自分との対話を表現しようとしたのかもしれない。自分の内側へ、その奥へ、静寂へ、停止へ。しかし聴衆は置き去りにされたままだ。
 ときに彼はクラシック音楽へと傾倒する。こうした彼の活動からは、表現追求のフィールドを広げようとする探求心がひしひしと伝わる。そういう彼の姿勢があってこそ、ジャズという枠を超えたファンを掴んでいることも忘れてはならない。だが彼のソロはジャズから離れることで独特のものとなる一方、ジャズから得られるイマジネーションを減らしているのだ。
 しかしやはり彼の感性のルーツというべきものは、チャールズ・ロイド・カルテットにいた頃の演奏に聴かれるような、ジャズピアノの源流を受け継いだ演奏にあると思う。(もちろんこの時点で既にチェレスタ風アレンジその他、実に多彩で個性的なピアノを弾いているのだが)そして80年代に入ってからは従来のピアノトリオ・スタイルを継承した形での作品が次々と発表される。いずれも評価の高いものばかりだが、この中の「スタンダーズ・ボリューム2」(1983年1月録音)は、どの曲をとっても、弾き始めの数小節で聴衆を惹きこんでしまうものばかりである。
 水面に落ちる雫の波紋がそっと広がるようなピアノの音に、リズミカルな雨音のようなゲーリー・ピーコックのベースが続く。どこかビル・エヴァンズを連想させる演奏である。このトリオを聴くまでは彼の演奏からエヴァンズを連想したことはなかったので、新鮮な驚きがあった。だがおそらくキースや彼の熱狂的ファンは、エヴァンズとの類似など指摘されたいとは思わないだろう。
 ここで岡崎正通によるライナー・ノートを引用したい。
「60年代に第一線に踊り出たジャズピアニスト達…が特に初期において何らかの形でビル・エヴァンズの演奏に触発を受けて、そこから自身の表現スタイルを築きあげていったことを考え合わせるならば、ここでキース・ジャレットのプレイに、ビル・エヴァンズの影響が感じられたとしても、少しも不思議ではない。」
 あくまでも影響を受けた可能性があるという程度の指摘だが、著名評論家の彼が、ここでエヴァンズに言及していることに何やら安堵感を覚えた。気軽に「エヴァンズに似ている」などと、思いつきで言っていいはずはないからだ。共通点があるとすれば、甘さを漂わせながら、それに逃げないストイシズムが浸透していることぐらいである。下手にこの類似性に拘泥すれば、せっかくの名演奏を貶めることになる。だが、どうしてこうもエヴァンズの演奏が頭に浮かぶのか、気になって仕方なかった。
 ライナーノーツにはピーコックが、かつてエヴァンズのトリオのベーシストだったことも指摘されていた。自分の知識のなさを露呈することだが、これを読むまではピーコックとビル・エヴァンズの関係などまるで知らなかったのである。そしてその事実から、ピーコックのベースこそ、エヴァンズの演奏を連想させる源泉なのだと気づいた。
 ピーコックと、初代ビル・エヴァンズ・トリオのベーシスト、スコット・ラファロのとの関連が鍵だったのだ。つまりスコット・ラファロという夭折のベーシストがいたからこそ、二人のピアニストの演奏が酷似する瞬間が現れたのである。ゲーリー・ピーコックのベースが限りなくラファロに近づく時、キースがその音に誘われ、そこにビル・エヴァンズを連想する演奏が生まれる。メロディーラインの豊かさで限りなく聴衆を魅惑するという点の共通する二人のピアニストが、ラファロというベーシストと、その理解者であるピーコックを介して見事につながり、彼のベースはキースの想像力を比類ないまでに高めている。そこには、一部のソロピアノに見られるような、内的世界探求のあまりに変化の乏しくなった演奏ではなく、外に向かい、対話へと向かう彼の姿がある。
 触媒という言葉はあまり適当ではないかもしれないが、このアルバムでは、彼の才能を十分に引き出す存在としてピーコックのベースがあり、彼らを支える存在として、長年彼の脇を務めたドラムスのジャック・ディジョネットが、その役割を果たしている。演奏の際に「何も用意しない」ことに、彼がまだこだわっているとすれば、実りある結果につながるとはとても思えない。33年前のチャールズ・ロイド・カルテットで、彼はすでにソロピアノの原型のとなるような演奏も行っている。彼の力量はそうした時代からの蓄積の中にある。ときにはそこから、きらめきと緊張感に満ちた音が止めどなく流れ出す。その流れを止めてしまうのは、方法論への行過ぎたこだわりだろう。

No.2
Korn Consert
 

 
Melody at Night with You

 上記の原稿を書き終え、しばらくしてから、キースの新作、「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」を聴いた。絶賛され、新聞にも紹介された。彼のカムバックを望むファンが待ちわびていた新譜である。全曲スタンダード、スタジオ録音。
 実は最初、かなりの戸惑いを感じた。あまりの音の柔らかさのために。私が待っていた音との違いが大きすぎた。アレンジもオーソドックス。凡庸と紙一重だと感じた。正直言って失望感のほうが大きかった。ところが、頭を冷やして二度目を聴くと、シンプルな音が心に染み透っていく。本当ならいくらでもドラマチックに弾くことができるキースが、飾らない選び抜いた音だけを、控えめなスピードで奏でる。
 こんなキースの演奏もあったんだな、と考えた。穏やかなピアノだ。だがベテランピアニストの余裕で弾いているわけではない。音選びに勝負をかけているという点は以前と同じだ。だがアグレッシブなところが全くない。自分の世界とだけ交信しているようなところも、もちろんない。この演奏は歌というより語りに近い。ここ数年沈黙していたキースには、彼しか知らないドラマがあったのだろう。
 また彼はスタンダードのソロアルバムを出すということに、かなり抵抗があったはずだ。このアルバムは、彼が苦しみぬいた後の答であるように思う。そしてその辛さを微塵も見せないのが彼のかっこよさだ。技巧を尽くすのでなく、シンプルな音に情感をこめる。それに徹した演奏である。
 「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」はエンドレスに聴きつづけられる名盤と言えるだろう。

 

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