|
||
ーシュールレアリスム「簡約辞典」は、記述された言語の特権性を、大衆に解放するー |
||
1920年代のシュールレアリスムはオートマティズム、M・エルンストのフロッタージュ、O・ドミンゲスのデカルコマニー、コラージュなどその夢の簒奪としての表現、あるいは、無意識における絵的表現、を開拓し、そのように捕らえられた感があるが、それだけのものではなかった。 http://www.02.246.ne.jp/~ruohto/html/what_surrealisme.html#senngenn http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/
言語の広がりと言語の錬金術的技法をも表現の中に作り上げたのである。 アンドレ・ブルトンは、「シュールレアリスム宣言」の中で、夢の解放は人間の解放に向かうものとした。それは、ブルトンが考えていた人間の解放とは違った「表現」の方向に発展していった。夢の内容が、あり得ないことの統一、「偶然性」による空想的表現だとすると、夢を媒介とした表現ではなく、現実の中での「偶然性」という夢を媒介とした解放へと向かっていったのである。たとえば、1960年代のジョン・ケージの実験性の音楽は、チャンスオペレーションとして、偶然の音の執り行ないに強い関心を持っていた。それは、音について関心あるものは誰でも「表現」家であるという可能性まで含んでいる「運動」でもあった。 自我の形成のアモルフな「子供たち」の可能性は、無意義に遊戯することであり、表現と認識の不分明な「表現」に限りない戯れを、非合理的に生息することにある。とすれば、シュールレアリスムの表現技法は、子供たちに「表現」を解放したといえるのだ。フロッタージュは、表現技法以前の「偶然」に出来た形象による愉快な驚きの表現あり、デカルコマニーは、対象の陰影の形象に「子供の驚き」をもって迎える表現でもある。シュールレアリスムの表現技法は、様々なところに取り入れられ、「実験と偶然性」について虜になったシュールレアリストと名乗ることのないシュールレアリストの活躍が、今現在も自我の形成のないアモルフな「子供たち」の中でなされていることは、不明にしてはいけない。 この表現の解放は、言語にも及ぶこととなる。 したがって、そこにある「表現」の様々な意匠は、限りなく拙くもあるガジェットが存在し、また魚のように子供じみたもの、優美に狂う姿、ざらついた砂粒の「自由」もそっけなく並ぶ。あるいは、唯一性を僭称するものもあれば、衒学の様相を持ったものもある。意味のないギャグと苦笑、そしてアヒルのような表層であることも、国家の批判、国家の礼賛、市民に対する旺盛な批評も、潔く、そこに取り込まれ、かつ羅列される。 この価値の横並び「簡約辞典」は、畢竟今日的な混沌を、現実的に、目的、そのものに乱脈する、狂おしいまでの言語のシュールレアリスムではないか。 |
||
001 |
「眼」の周辺-1.01 |
|
▼眼の周辺 解竜馬 おまえの眼はそれほどに、眼であった。 ___ウイステラフ・ネズヴァル 両眼を閉じて、眼を造れ ___ポ−ル・エリュア−ル 眼は手がつむるように視る ___アンドレ・ブルトン キャンセルされた眼、底に宿る虹彩のない人形の虚ろな眼 ___解 龍馬 眼の無い魚、無いことによる深海に赴く、魚の逆立ち ___解 龍馬 大陸棚は永遠の夜である。深海魚の眼でないと何も見えん。 ___小野十三郎『冥王星で』 私が好きになるためには、何も大いに観念的である必要はないのです。私が好まないのは、全く非観念的であるもの、純粋に網膜的であるものです。それは私の神経に触ります。 ___マルセル・デュシャン あるとき日常が剥ぎ取られ、事物は赤裸々な視線を投げ返してくる。<私>は事物の視線によって絶えず犯されているのだ。 ___中平卓馬 |
|
|
▼眼の周辺 解竜馬 青い瞳 ___中原中也『在りし日』 |
|
|
▼眼の周辺 解竜馬 だから彼らの眼には闇がある、 ___中桐雅夫『死と愛』 |
||
![]() |
▼眼の周辺 解 龍馬 一時を求める黒い少女に夜が白く明けてくる、 ___解 龍馬 微粒のくらげの眼 ___吉岡実『挽歌』 目をふせよ! ___吉岡実『内的な恋唄』 ヒラメの両面が ___吉岡実『ヒラメ』 比類の無い凄惨な眼球によって詩刑に処せられるものは、剥製にされた光りの間に置かれる音楽や絵の器であり、身ぐるみ剥がれる万象の姿態から、その始まり、その羞恥にまで及んでいる。 ___吉岡実に対する土方巽の評 こうやって麓へと戻っていくあいだ、この休止の間のシ−シュポスこそ、僕の関心をそそる。石とこれ程間直に取り組んで苦しんだ顔は、もはやそれ自体石である!この男が、重い、しかし乱れぬ足取りで、何時終わりになるか彼自身では少しも知らぬ責め苦の方へ再び降りていくのを、僕は眼前に思い描く。 ___アルベ−ル・カミュ さまざまな自然法則の潜在的或いは顕在的な作用における、異常なる逸脱の目撃者となることは不可能ではない。事実、たれでも自分の生活のさまざまなる様相を調べてみるという賢明なる努力を・・・払うならば、まず最初に、客観的なことがらについていうと・・・。 ___ロ−トレアモン 当時文壇とも、また、どんな狡猾な形態をまとっているにせよ骨抜きの順応主義とも、橋は切断されていたのです。こうした精神状態をよくしめすものとして、ブニュエルの映画『黄金時代』に優るものはありません。・・・個々で敬意を払われているのは、常変わることなく、最も官能的な角度から眺められた愛であり、錯乱に至るまでも賛美される自由であり、そして、義務も罰もない倫理の枠内で、人生のいくつかに忍び込む悲壮なもの対する崇拝、にほかなりません。私は未だに−−それは1930年12月4日の朝のことでした−−『黄金時代』を上映していた「ステュディオ28」が前夜のデモ隊のために陥った状態が眼に浮かびます。インクで染みだらけになったスクリ−ン、滅茶めちゃに壊された椅子、玄関ホ−ルに展示されていたシュ−ルレアリストの絵は、総てナイフで引き裂かれていました。この惨状は、『愛国者同盟」および「反ユダヤ同盟」と名乗る二つの結社の仕業でした。そこでは私たちと《まっとうな考えの持ち主〔伝統主義者〕》あるいはそう自称する者たちを分かつ、深淵の深さをこの眼で測ることが出来たのです。 ___アンドレ・ブルトン |
|
|
![]() |