シュールレアリズム簡約辞典

シュールレアリスム「簡約辞典」は、記述された言語の特権性を、大衆に解放する

1920年代のシュールレアリスムはオートマティズム、M・エルンストのフロッタージュ、O・ドミンゲスのデカルコマニー、コラージュなどその夢の簒奪としての表現、あるいは、無意識における絵的表現、を開拓し、そのように捕らえられた感があるが、それだけのものではなかった。

http://www.02.246.ne.jp/~ruohto/html/what_surrealisme.html#senngenn

http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/

言語の広がりと言語の錬金術的技法をも表現の中に作り上げたのである。
その代表と集約が「シュールレアリスム」簡約辞典であり、そこには素朴な表現から反・市民社会に宿ってこそ意義のある旺盛な批評精神と闊達な言語の繰言が存在した。
「簡約辞典」には言語の妖怪と錬金術が様々に繰り広げられている。辞典という体裁をとりながら、言語の遊び、繰言、虚言、そして、ほかの辞典では見出せない、「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の出会い」という言語の統一がやすやすと提示されていたのである。多くの「作者」が、多彩な議論と詩的言語を、あるテーマに則って、あるいはテーマと外れるが、その単語を含む文の「引用」も「無意味」のように、そして輝いて掲載されていたのである。その様相は、「言語」の断片がとりとめもなく並んでいる様に見えて、非統一の「統一」、非連続の「連続」として埋め込まれているように思えたのである。
「簡約辞典」とは「意味」と言う関係を解体、再定義、再解釈の際限なく続く表現の姿であり、ありえないことの結合であり、おおよそ「現実的」に辞典を引く様に理に適って役に立つ代物ではない。が、しかし、役立つことにのみ意義を見つけるこの現実社会と個人の在り様に、疑問と疲労を「現代人」は直感的に募らせているのではないだろうか?とすれば、「実用的ではない」この「引用と不可能性の断片」の集積としての「辞典」は、「現代」の実用性と目標の設定、目的に振り回され、実生活を合理的に解決することを至上命令とする機能的「思考」に鋭く対立する。旺盛な批評精神として、大いなる諧謔として、シュールレアリスムのその諧謔の志と偶然性への賛美は、機能主義、合理的目的主義に窒息する現代の「現実」に対して冷たい刃を現代の中に向けることにもなるのだ。

アンドレ・ブルトンは、「シュールレアリスム宣言」の中で、夢の解放は人間の解放に向かうものとした。それは、ブルトンが考えていた人間の解放とは違った「表現」の方向に発展していった。夢の内容が、あり得ないことの統一、「偶然性」による空想的表現だとすると、夢を媒介とした表現ではなく、現実の中での「偶然性」という夢を媒介とした解放へと向かっていったのである。たとえば、1960年代のジョン・ケージの実験性の音楽は、チャンスオペレーションとして、偶然の音の執り行ないに強い関心を持っていた。それは、音について関心あるものは誰でも「表現」家であるという可能性まで含んでいる「運動」でもあった。

自我の形成のアモルフな「子供たち」の可能性は、無意義に遊戯することであり、表現と認識の不分明な「表現」に限りない戯れを、非合理的に生息することにある。とすれば、シュールレアリスムの表現技法は、子供たちに「表現」を解放したといえるのだ。フロッタージュは、表現技法以前の「偶然」に出来た形象による愉快な驚きの表現あり、デカルコマニーは、対象の陰影の形象に「子供の驚き」をもって迎える表現でもある。シュールレアリスムの表現技法は、様々なところに取り入れられ、「実験と偶然性」について虜になったシュールレアリストと名乗ることのないシュールレアリストの活躍が、今現在も自我の形成のないアモルフな「子供たち」の中でなされていることは、不明にしてはいけない。

この表現の解放は、言語にも及ぶこととなる。
活字言語の扱いを、特定のもの達から「解放」する主張が、ブルトンの「高等趣味」とは別の論理サイクルを持って、開かれるのである。オートマティズム(自動記述)の理屈の徹底によれば、夢の無意識的な記述は、誰にも記述出来るのであり、それが「人間」の解放へと繋げる理論的姿勢となるものであった。しかし、手軽に活字化できるPC技術文化と手軽にサイトを持てるネット技術文化が、特定の知識を備え大衆から抜きん出た「神」のようなかつての「知識人」「作家」や、知名度と文才については抜きん出る「知識人」から、無名の者たちの「表現」と思想表明の解放を可能にした。思いがけない言語の結合を偶然に見出し、発見的姿勢によって言語を組織化し、原理原則のもとに、または、無脈絡のもとに記述された言語を並べるという、「簡約辞典」の方法が、大衆的に技術的に可能となったのである。

したがって、そこにある「表現」の様々な意匠は、限りなく拙くもあるガジェットが存在し、また魚のように子供じみたもの、優美に狂う姿、ざらついた砂粒の「自由」もそっけなく並ぶ。あるいは、唯一性を僭称するものもあれば、衒学の様相を持ったものもある。意味のないギャグと苦笑、そしてアヒルのような表層であることも、国家の批判、国家の礼賛、市民に対する旺盛な批評も、潔く、そこに取り込まれ、かつ羅列される。

この価値の横並び「簡約辞典」は、畢竟今日的な混沌を、現実的に、目的、そのものに乱脈する、狂おしいまでの言語のシュールレアリスムではないか。

001

「眼」の周辺-1.01

▼眼の周辺

解竜馬
2001/07/21(Sat) 18:46

おまえの眼はそれほどに、眼であった。

___ウイステラフ・ネズヴァル

両眼を閉じて、眼を造れ

___ポ−ル・エリュア−ル

眼は手がつむるように視る

___アンドレ・ブルトン

キャンセルされた眼、底に宿る虹彩のない人形の虚ろな眼

___解 龍馬

眼の無い魚、無いことによる深海に赴く、魚の逆立ち

___解 龍馬

大陸棚は永遠の夜である。深海魚の眼でないと何も見えん。

___小野十三郎『冥王星で』

私が好きになるためには、何も大いに観念的である必要はないのです。私が好まないのは、全く非観念的であるもの、純粋に網膜的であるものです。それは私の神経に触ります。

___マルセル・デュシャン

あるとき日常が剥ぎ取られ、事物は赤裸々な視線を投げ返してくる。<私>は事物の視線によって絶えず犯されているのだ。

___中平卓馬

▼眼の周辺

解竜馬
2001/07/21(Sat) 18:47

青い瞳

1_夏の朝

かなしい心に夜が明けた、
うれしい心に夜が明けた、
いいや、これはどうしたといふのだ?
さてもかなしい夜の明けだ!

青い瞳は動かなかつた、
世界はまだみな眠つてゐた、
さうして『その時』は過ぎつつあつた、
あゝ、遐《とほ》い遐いい話。

青い瞳は動かなかつた、
――いまは動いてゐるかもしれない……
青い瞳は動かなかつた、
いたいたしくて美しかつた!

___中原中也『在りし日』

▼眼の周辺

解竜馬
2001/07/21(Sat) 18:48

だから彼らの眼には闇がある、
黒いコウモリ傘のしたに彼らの生活がある、
昆虫と鳥、
魚の血の冷たい生活がある。

___中桐雅夫『死と愛』

▼眼の周辺

解 龍馬
2001/07/21(Sat) 23:56

一時を求める黒い少女に夜が白く明けてくる、
そこに自らの眼のある羽に
磨かれた襤褸の資格によって、
紅の蝙蝠が、今宵を結び直すように煌めくままに、
轟くようにまたたきはためく・・・。

嬉しいほどに痙攣した、真向かいに座った、
希倫の頚がゆっくりと笑いだし、
後ろ姿の綺麗な崩れた白いミルクを飲み干す・・・。
並行な夜、紅の蝙蝠が、
日傘を差して歌いだし、陰酒をのみ、
崩れるばかりの宴に七度、
空を視あげ、引き裂かれるままに見抜いている
眼のままに居座る・・・。

タンスの真ん中に胡座をかいたアリが一匹、
それに満足した暴走する眼を剥き出した愚連隊、
吸いかけの死角の煙草に群がる手の綺麗な子供たち、
朝陽の端くれが訪れて、道端に転がっていく丸い時計の錆び付いた針。
たちどころに
眼の形をして
七つ並ぶ。

___解 龍馬

微粒のくらげの眼
沈んでゆくわたしの荷を
いっせいに一瞥する
それには恐ろしく沈黙の年月があるように思われた

___吉岡実『挽歌』

目をふせよ!
あらゆる建築物の裏側で
べる砂のひびきが聞こえるんだ

___吉岡実『内的な恋唄』

ヒラメの両面が
少しずつ滑らかになる
冷たく熱く
北から南から
ひきよせられて二つの眼がひらかれる

___吉岡実『ヒラメ』

比類の無い凄惨な眼球によって詩刑に処せられるものは、剥製にされた光りの間に置かれる音楽や絵の器であり、身ぐるみ剥がれる万象の姿態から、その始まり、その羞恥にまで及んでいる。

___吉岡実に対する土方巽の評

こうやって麓へと戻っていくあいだ、この休止の間のシ−シュポスこそ、僕の関心をそそる。石とこれ程間直に取り組んで苦しんだ顔は、もはやそれ自体石である!この男が、重い、しかし乱れぬ足取りで、何時終わりになるか彼自身では少しも知らぬ責め苦の方へ再び降りていくのを、僕は眼前に思い描く。
ーーー(中略)ーーー
ぼくはシ−シュポスを山の麓に残そう!人はいつも、繰り返し繰り返し、自分の重荷をみいだす。しかしシ−シュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。彼もまた、総てよしと、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、彼には不毛だとも下らぬとも思えない。この石の上の結晶の一つ一つが、夜に満たされたこの山の鉱山物質の輝きひとつひとつがそれだけで、一つの世界をかたちづくる。頂上を目掛ける闘争ただそれだけで、人間の心を満たすのに十分足りるのだ。今や、シ−シュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。

___アルベ−ル・カミュ  
『シ−シュポスの神話』

さまざまな自然法則の潜在的或いは顕在的な作用における、異常なる逸脱の目撃者となることは不可能ではない。事実、たれでも自分の生活のさまざまなる様相を調べてみるという賢明なる努力を・・・払うならば、まず最初に、客観的なことがらについていうと・・・。

___ロ−トレアモン   
『マルドロ−ルの歌』

当時文壇とも、また、どんな狡猾な形態をまとっているにせよ骨抜きの順応主義とも、橋は切断されていたのです。こうした精神状態をよくしめすものとして、ブニュエルの映画『黄金時代』に優るものはありません。・・・個々で敬意を払われているのは、常変わることなく、最も官能的な角度から眺められた愛であり、錯乱に至るまでも賛美される自由であり、そして、義務も罰もない倫理の枠内で、人生のいくつかに忍び込む悲壮なもの対する崇拝、にほかなりません。私は未だに−−それは1930年12月4日の朝のことでした−−『黄金時代』を上映していた「ステュディオ28」が前夜のデモ隊のために陥った状態が眼に浮かびます。インクで染みだらけになったスクリ−ン、滅茶めちゃに壊された椅子、玄関ホ−ルに展示されていたシュ−ルレアリストの絵は、総てナイフで引き裂かれていました。この惨状は、『愛国者同盟」および「反ユダヤ同盟」と名乗る二つの結社の仕業でした。そこでは私たちと《まっとうな考えの持ち主〔伝統主義者〕》あるいはそう自称する者たちを分かつ、深淵の深さをこの眼で測ることが出来たのです。

___アンドレ・ブルトン          
『ブルトン、シュ−ルレアリズムを語る』