シュールレアリズム簡約辞典

001

「眼」の周辺-1.03

▼眼の周辺

解 龍馬
2001/08/16(Thu) 17:04

俺には何一つ見えない。
自分自身以外何も見えない
でもそれが一番大事なことに違いない
自分が見えることが
俺のピントはいつも合っている
頭脳も会話している
なかなか結構じゃないか
頭はストレート ガールフレンドは美人
なかなか結構じゃないか
ときによって話もするが 今夜は話題がない
時々フリークになって一日中笑っている
3ページほど明かりに透かしてみると
夢の中のジャックナイフが見えてくる
夜になるとおまえのレコード屋の中に路線が敷かれ
深い氷結に入る
メアリー 簡単なことを聞くが
おまえはこの国にいるのかい?
おまえはいつもいっぱい物を見て
頭はしっかりしているが
俺のことは聞こえているかい?
あのときの電話の会話は覚えているかい?
俺がドアで おまえがガラスの壊れた駅
そして両者の間にはかなりの距離があるて言っていたよね
確かにあの時は会話に溺れていた
俺のカップは溢れそうだが 気分はいい
世の中なんて退屈だが 今日は違う
これはエリックのトリップ
みんなで彼が転ぶのを見ている
テキサスまでずっと転がっていく
まるで俺みたいな転がり方だ
エリックはこう言った「それは青い」と
俺はガラスの目 望遠鏡で歩道の様子を眺める
野原で生まれた影が 俺からおまえへとあっせって進む
俺達は世界を壊し倒して 四方を囲む壁を立てた
俺は作り話の中で息をして
町に出れば 将来と交わる
そしておまえのキッスの中でハイになる
明らかでなくても 今見えているものは悪くはない
聞こえない部分は適当につくろって
一晩中歌い続けよう
散らばったページ 断続的な明かり
ジャックナイフと夢
右手のほうで働くものがある
あんなもの生まれて初めて見た

___Sonic Youth "Eric's Trip"

▼眼の周辺

解 龍馬
2001/08/17(Fri) 00:57

・・ただ私の外観はいかのようにのっぺり、透き徹って見えた。そして私は、さらさらと清い流れの中に沈んでいることを知った。その流れはそこの浅い小川で、場所はどうも野原のようである。私はさらさらした流れに身をつけたまま、外部を通し見たところに何の木か知らないが一本の古木があって、葉は一枚もなく朽ちかけた太い枝えだの先に、鴉がくちばしを一ぱい広げてがっぷり食いついているのが見えた。それをもっとよく見ようとして目を見張ると、それも一羽だけでなしに、どの枝の先にも、そのようなくちばしを一ぱい広げてがっぷりえだ先に食いついた鴉がうようよしていた。それはちょうど貝殻虫のように執拗な感じを与えた。鴉はそのままの姿勢でいつまでもそうやっているような気がした。ただ生きている証拠に、てっぺんに向けた尻を時々動かしては、翼をやんわり広げる格好をした。しかしくちばしで葉のない太い枯れ枝にがっきり食いついたままであることに変わりはなかった。それで流れの中につかっている私は、その鴉どもを、貝殻虫をむしり取るように、ひっぺがしてやりたいと考えていた。

___島尾敏雄『夢の中での日記』より

▼眼の周辺

解 龍馬
2001/08/27(Mon) 02:39

時として歴史に見られる、運命の設計図の上の、何か得たいの知れない神秘の力が、ある均斉を要求して、それに答えたとしか思われない奇怪な偶然から、ネチャーエフはちょうどイヴァーノフ(ネチャーエフが殺した同志)が死んだ同じ日に、35歳で死んだ。

___ルネ・カナック『ネチャーエフ』
[副題:ニヒリズムからテロリズムへ]

Eyes in the center
Head to the right
All you know on the void
Come to see you
Under the night
Mondo dance and a trance
Mondo dance and a trance........

___Chrome "Eyes in the center"『Red exposure』収録曲/1980年

I saw you in the night against the rain
and I can't find a memory to the save
I am anti fade and I can't go away
My name is hurt and I get hurt too
I sight you off the road and I should know
I am anti fade and I can't go away........

___Chrome "eyes on Mars"『Red exposure』収録曲/1980年

▼眼の周辺

解 龍馬
2001/08/27(Mon) 02:40
真夜中の街角にきらりと光る
野良猫の瞳ではまさかあるまい
家出する娘には行く当てもない
落ち着いて考えることが出来ない

公園のベンチよりホテルの部屋で
恋人の唇が好きと動いた
勇気なら持ちなさい 得になるから
リンゴなら食べなさい 中の中まで

そのとき夜空がゆがむ
悲しい娘もゆがむ
心と体と愛がねじれる

・・・・・・

___井上陽水『娘がねじれる時』1979年

▼眼の周辺

解 龍馬
2001/08/27(Mon) 23:51

■ブランショ

死、われわれは、死しか眼にしない。自由な動物は、常にその没落を後方にして、眼前には神を望む、彼が進み行くときは、永遠の中に進み行くのだ、さながらに泉が流れ出るように

___リルケ『第八の悲歌』

だから、死とは「死しか眼にしない」ことであり、それは、限られた生と転換しなかった意識が遡るエールなのだ。死とは、われわれが存在の中に導き入れる、あの、境界付けへの顧慮に他ならず、またわれわれが一切の事物を、つまり、閉じられ限られその目的に対するわれわれの気遣いが隅々まで染み込んだ現実の事物と化する、誤った変質作業の、結果であり、恐らくはその手段である。自由とは、死からの開放、死が透明なものとなるあの地点への接近でなければならぬ。
なぜなら、死の傍らにありながら人はもはや死を見ない、人は外部に眼を凝らす、遅くは、動物の見開いたまなざしで。

___リルケ『第八の悲歌』

 

▼眼の周辺

天木祐治
2001/09/05(Wed) 00:26

■ロラン・バルト

記号とはくり返されるものである。くり返しがなければ、記号はない。なぜなら、“これは同じ記号だと認める”ことができないからである。そして、これは同じ記号だと認めることこそが記号の基礎だからである。
ところで、眼差しはすべてを語ることができる、とスタンダールは書いている。しかし、眼差しはくり返されない。したがって、記号ではない。にもかかわらず、眼差しは意味している。これは一体どういうことか。
眼差しは、(不連続な)記号を単位とせず、バンヴェニストが理論化を試みた意味形成性(シニフィアンス)を単位とする意味作用(シニフィカシオン)の領域に属しているということである。
記号の分野である言語とは反対に、緒芸術は、一般に、意味形成性に属している。したがって、眼差しと音楽との間に一種の親近性があるからといって驚くには当たらない。あるいはまた、古典的絵画が好んであれほど多くの眼差しを、泣きぬれた眼差し、威圧的な眼差し、怒った眼差し、物思いにふけった眼差し等々を描いたからといって、何も驚くには当たらないのである。
意味形成性の中には、おそらく、何らかの確固とした意味論的な核があるのだ。それがなければ、眼差しが何かを語ることはできないだろう。すなわち、文字通り、眼差しは、中立性を意味する場合を除けば、“中立”であることはできないだろう。もし眼差しが<曖昧>であるとすれば、その曖昧さは、明らかに、下心に満ちているのだ。

___ロラン・バルト『眼の中をじっと』
1977刊行準備中の共同論文集『眼差し』のために書かれた未発表原稿

▼眼の周辺

解 龍馬
2001/09/05(Wed) 01:24

■ミシェル・フ−コ

こうして、この巌の言語、それにとっては裂け目や切り立ちや引きちぎられた断面などが本質をなす、周回し得ない言語は自己自らに送り返され、その諸限界の問題化に向かって自己閉鎖する円環的言語なのだ、―――まるでそれが夜の小さな球体、そこから異様な光が迸って、自らが由来する空虚を指し示し、自らが照らし出しかつ触れるものすべてを宿命的にそこに差し向ける、そんな球体以外の何物でもないかのように。たぶんこの異様な形状こそ、<眼>に対して、バタイユがそれに認めてきた執拗な威光を与えているものなのだ。彼の作品の端から端に至るまで(最初の小説から『エロスの涙』まで)、この形状は内的体験の形象としての値打ちを保ってきた。「私がそっと、私の苦悩のまさに中心において、なにか異様でとんでもないことを求めるとき、ひとつの眼が頂上に、私の頭蓋のまんまん中に開かれる。」それはつまり、自らの夜に向かって閉じられている小さな白い球体である眼はひとつの限界の円環を描き、この限界を乗り越えるものはただ眼差しの氾濫だけだからだ。そして眼の内的な闇、その暗い核は、ものを見る、ということは照らし出す源泉となって世界に溢出する。けれどもまた、眼は世界の光のすべてを光彩の黒い小さな斑点の上に集め、その光を一戸の映像という明るい夜のうちに変貌させる、とも言えるのである。眼は鏡でありランプなのである。・・・。

___ミシェル・フーコー「侵犯行為への序言」
『外の思考』収録(豊崎光一訳)1978年

▼眼の周辺

解 龍馬
2001/09/06(Thu) 01:04

身体へのまなざしを遮る1枚の布きれ、それが身体的な存在の可視性を変容させる。可視性の表面に、見えるものと見えないもの、外に現れているものと内に隠されているものといった分割を生じさせてしまう。そしてこのりょうこうの存在ではなくてその差異の存在そのものが、想像力の資本が投下される場となる。つまり、想像力は隠れているものへと向かうように視えながら、実は隠されているというこを発火点として、隠されているもののかなたをめがけているようなのだ。

___鷲田精一『モードの迷宮』

▼眼の周辺

天木祐治
2001/09/06(Thu) 20:29

眼のわるいのと耳のわるいのと。

―――眼の弱い人はいつも見えようが足りない、耳のわるい人は、いつも幾らか余分に聞く。

___ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』544

▼眼の周辺

岡崎 凛

■悲しみジョニー by UA

青い時代は過ぎて 風はひどく嘆いた
チンケな毒を舐めた 赤い鳥が笑う
ねぇ冗談でしょうジョニー まだ退屈色した
陽気な蝿の唄が 蒸れた空に響く
悲しみ深く海より深く 心にトゲを埋めても
ふしだらな幸せは全部あげる
萎えた鳩はびしょぬれ
ありつけるまで笑っててよジョニー
夢の続きを聴かせて
もえつきるまでしゃぶっててよジョニー
破れた肉を濡らして
ゆるい季節の中で あつい殻は破れて
熟れすぎた果実を 錆びた雨が洗う
あきらめよりもおどけたキスを 楽しい嘘を捧げましょう
ありふれた涙もひからびた 飢えた空は血まみれ
しらけた夜と 絡まってダンス踊ろう
乾いたリズム 冷たい炎浴びて
悲しみジョニー 愛を亡くして
心に傷を隠しても 憧れはママの甘い子守唄
あきらめよりもおどけたキスを 楽しい嘘を捧げましょう
ありふれた涙もひからびた 飢えた空は血まみれ
はり裂けるまでなじっててよジョニー
エサのありかを教えて
闇つきるまで黙っててよジョニー
肌のすき間を触って
ありつけるまで笑っててよジョニー
夢の続きを聴かせて
もえつきるまでしゃぶっててよジョニー
破れた肉を濡らして

CD“アメトラ”、『AJICO SHOW』収録

▼眼の周辺

解 龍馬
2001/09/11(Tue)

■アゴスティ

このエクリチュ−ルにおいては、意味のあるところにあるのではなく、エクリチュ−ルとともに作られまた解体されるのであり、真理は、もし真理というものがあるとすれば、あの痕跡、尻尾=終わりも頭=初めもないあの空虚で多種多様な水脈に住まうことしかできない。そこにおいて自らを破壊するためである。なぜなら、このエクリチュ−ルは何ものも言わず、その言うところのものをごたまぜにし、余白の上に押しやり、余白を奪い取って何ものもそこに定着されないからである。それは、それが跡付けるものを消し、それが言うところのものを散乱させる暗黒色のエクリチュ−ルである。それはいかなるものからも非難させているのではなく、寧ろ外に晒しているのである。それゆえ、それは白いエクリチュ−ルである。
そととは、夜であり、太陽の不在であり、父の殺害である。それは、自らを非難させることを拒むことと同じくみずからを盲目にすることを拒んだ父親殺しのエクリチュ−ルである。それは夜のエクリチュ−ルであり、そのことは、それが白いことを意味する。黒の上の白、星の撒種、銀河星雲。「すべてはもはや太陽となって機能するのではなく、星となって機能し始める。」眼には視えないが、まともに凝視することの出来る中心から、意味が、種子が、放射し消え失せる。

___ステファ−ノ・アゴスティ
「一撃の上の一撃−=続けざまに」、
『尖筆とエクリチュ−ル』収録-1973
ジャック・デリダ

▼眼の周辺

解 龍馬
Date:2001/10/08(Mon) 00:28

■ 井上陽水

ダンスはうまく踊れない
あまり夢中になれなくて
猫は足下で踊り
私 それを眺めている
夏の夜はすでに暗く蒼い
窓に見える星の光近く
誰も来ないし誰も知らない

ひとりきりではダンスはうまく踊れない
遠い懐かしいあの歌
私 夢色のドレス
あなた限りにない笑顔で
足を前に 右に 後 左
風のように水のようにふたり
時を忘れて時の間を
今夜ひとりでダンスをうまく踊りたい
丸いテーブルのまわりを
私 ナイトガウンのドレス
歌は懐かしいあの歌
部屋の中で白い靴をはいて
ゆれる ゆれる 心 夢にゆれる
夜を忘れて 夜に向かって

___『ダンスはうまく踊れない』井上陽水
1984