002

「暴力」1.01

▼ミンデル

解 龍馬
2001/10/21(Sun) 04:20

帝国主義とは、明白なあるいは潜在的な政策としての、国家的、領土的、経済的な侵攻である。政府の先導と主流派市民の消極性が一組になってそれを支える。帝国主義が潜在的であるとき、それは二重に虐待的である。人々は、見ることの出来ない権力からは、自分を守ることは出来ないからである。テロリズムはそれとは異なる。
テロリズムの特徴は、平等や自由を目的に、権力を持たないグル−プが主流派に対して攻撃することである。主流派に対する手当たり次第で道理に合わないと思われている暴力は、実際には、自由のために闘う人々が苦しんできた傷を埋め合わせる試みである。その目的は、権力を持つ人々に社会変革の必要性を気づかせることだ。テロリストの観点からすれば、自分たちが傷つけたり殺したりする主流派の人々は総て、無辜の犠牲者ではない。主流派の人々は総て、たとえ消極的なだけだったとしても、テロリストが関与している抑圧に関与している。

___ア−ノルド・ミンデル『紛争の心理学』
2001年より

▼シチュアシオン

解 龍馬
2001/10/29(Mon) 00:26

公然とフェミニズム・ディスコースを批判し、サブカルチャーを論じるポストモダン・ディスコース一般にも疑義を呈するカミーユ・パリアはマドンナ支持の急先鋒である。
ベストセラーにもなった『セクシャル・ペルソナ』では、英文学における女性原理を掘り下げて全米の話題になった彼女だが、最近はマドンナを橋頭堡にしてフェミニズムを撃つという感じすら漂わせている。特に『セクシュアル・ペルソナ』の第二部とも言うべき『セックス・アート・アメリカ文化』では、マドンナの名がメイプルソープとともに頻出する。知的でブス(!?)なメリル・ストリープよりもマドンナの方がすばらしいと公言する彼女の論旨はかなり、“傾向的”なものだが、明瞭である。パリアはマドンナを真正のフェミニスト、新しい時代のフェミニズムの実践者として位置付けている。面白いことに、彼女は熱烈なメイプルソープの支持者でもある(ゆえに彼女は反フェミニストであっても、悪名高いジェシー・ヘルムズ上院議員のような保守反動ではない)。
彼女はマドンナやメイプルソープの表現を、西欧では忘れられてしまったペイガニズム(異教主義)の系譜に位置付けている。パリアによれば、社会と道徳が混乱した時代にはサド・マゾヒズムが常に回帰するという。それは『異教崇拝』であって、マドンナやメイプルソープが新たな形で再生させているのは、キリスト教社会の深層に潜んでいるペイガニズムなのだといっている。ゆえに彼女は、マドンナやメイプルソープを擁護する『リベラリズム』や『ポストモダニズム』を認めない。彼女はそれが暴力的なポルノグラフィであることをむしろ評価している(パリアに取っては、マネの『草上の昼食』も、ミケランジェロやカラヴァッジオの作品もポルノなのだ)。
パリアはハントやレイプが男の生物学的なプログラムに書き込まれていると主張し、これを承知で生きるものが「真正のフェミニスト」であると位置付ける。「マドンナはフェミニスト達よりもずっとセックスについて深い洞察をしている。彼女は動物性と人工的な面を両方見ている。衣装を変え、ほとんど毎月のように髪形を変えながら、マドンナは美と快楽の永遠の価値を具体化する。…世界中の若い女性への強大なインパクトを通して、マドンナはフェミニズムの未来なのだ。」(『セックス・アート・アメリカ文化』)

___上野俊哉『シチュアシオン--ポップの政治学』
(この女(ひと)を見よ-フェミニズムとロック)1996年

▼シミュレ−ショニズム

解 龍馬
2001/10/29(Mon) 00:29

『人間の質が完全に変わっていた』――そう、この変質した人間、われわれが考える生物学的な意味での女性とは必ずしも一致しないであろう『女性』とは、むしろそのような『男たち』に近い女たちのことである。女達がアーティストになることを可能にする男たち、それは『女性』を自分自身から分離すべき対象として排除するような『男』ではなく、自らのうちにそのような『結果』としての差別を能動的に受容/変容させる男たちのことである。

…(中略)…誤解を避ける必要もないが、それはもちろん前述したごときユング的な内在的アニマとアニムスの肯定ではありえない。それを言うならばむしろ男性と女性がいわば確率論的に決定/非決定さえるような、いわばジョン・ケージの指摘するキノコの性のごときもののほうがずっと生産的な例であるだろう。キノコはオスとメスの間にそれがオスかメスかの確率論的にしか決定できない『無限』をはらんだ領域を有しており、ケージは、人間の二項対立的な性を、これら性の無限なる中間項を暴力的なまでに単純化したものと考えたのである。しかしながら人の性はもっとグロテスクな一面を持っていて、当たり前のことだが菌類とのアナロジーは一概には成立しない。
『狂える本能』を宿命づけられた人間という種が、オスとメスではなく男と女という二項対立を超えるその超え方は、もっといびつなものとならざるをえない。たとえば「シーメール」と呼ばれる男たち「?」がいる。シーメイルとは高技術の整形によってもたらされる性転換された肉体を持つ一種の両性具有者で、ペニスを除けばほぼ完全に女性の外観を有している。彼らのセックスは…(中略)…彼(メイプルソープ)に付きまとってきていた両性具有性は、男性と女性とを自らの中に調和的に共存させるのではなく、その二者間の差異を暴力的に押しひろげて見せることによってのみ明らかとなる性の裂け目であったはずなのだ。

___椹木野衣『シミュレーショニズム』
(シミレーショニズムの女たち)
2001年

▼暴力批判論

解 龍馬
2001/10/30(Tue) 00:20

直接的暴力の神話的宣言は、より純粋な領域として開くどころか、もっと深いころでは明らかにすべての法的暴力と同じものであり、法的暴力のもつ漠とした問題性を、その歴史的機能の疑う余地のない腐敗性として明確にする。したがって、これを滅ぼすことが課題となる。まさにこの課題こそ究極において、神話的暴力に停止を命じうる純粋な直接的な暴力についての提起をするものだ。
一切の領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかも、あらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪を作り、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。
…(中略)…
神話的暴力は単なる生命に対する、暴力それ自体のための血の匂いのする暴力であり、神的暴力はすべての生命に対する、生活者のための、純粋な暴力である。前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受け入れる。
…(中略)…
この神的暴力は、宗教的な伝承によってのみ存在を証明されるわけではない。むしろ現代生活の中にも、少なくともある種の神聖な形でそれはみいだされる。完成された形での教育者の暴力として、法の枠外にあるものは、それの現象形態のひとつである。したがってその形態は彼自身が直接にそれを奇跡として行使することによってではなく、血の匂いのない、衝撃的な、罪を取り去る暴力の執行、という要因によって――究極的には、あらゆる法措定の不在によって、――定義される。この限りで、この暴力をも破壊的と呼ぶことは正当だが、しかしそれは相対的にのみ、財貨・法・生活などに関してのみ、破壊的なのであって、絶対的には、生活者のこころに関しては、けっして破壊的ではない。
…(中略)…
しかし、非難されるべきものは、一切の神話的暴力、法措定のーー支配の、と言ってもよいーー暴力である。これに仕える法維持の暴力、管理される暴力も、同じく非難されなければならない。これらに対して神的な暴力は、神聖な執行の印章であって、決して手段ではないが、摂理の暴力と言えるかもしれない。

___ヴァルタ−・ベンヤミン『暴力批判論』
1965初版ー1975年版

▼イヴァン・イリッチ

解 龍馬
2001/11/09(Fri) 15:41

歴史を振り返ってみると、これまでおびただしい数の文化が出現しては消えていった。ところが面白いことに、新しい文化が成立すると必ず、平和という言葉に新しい意味が付与されている。つまり、それぞれのエスノス(民族・共同体・文化)は、それぞれに独自の平和のエトス(理想・指針)を打ち立ててきたのである。そうすることによって、自分たちが何者であるかを知り、自分たちの象徴を獲得し、自分たちの団結力を強めようとしたのである。とすれば平和は、言語と同じぐらい、それそれぞれの文化に特有のものといえる。
…(中略)…
12世紀において、パックスとは、領主間で戦争が行なわれいないということを意味するものではなかった。カトリック教会および神聖ロ−マ皇帝が実現・維持すべきパックスの第一目的は、騎士同士の武力衝突をなくすことではなかった。平和とは、戦争がないことではなく、戦争のもたらす暴力から貧しいもの及び弱いものがサブシステンスを得るための手段を保護することであった。平和とは、農民や修道士を守ることであった。平和とは、「特定の時間と土地」を守ることであった。
…(中略)…
また平和とは、非常用の穀物倉庫や収穫の時期が保護されているということであった。一般的に言えば、ある土地が平和であるとは、その土地の民衆が共有する環境の利用価値が外部からの暴力的干渉によって損なわれていないということであった。
…(中略)…
したがって、対立関係にある騎士同士が戦争をしていようといまいと、その土地が平和であることとは無縁であった。ところが、このサブシステンスの保護を第一目的とする平和は、ルネサンスとともに失われてしまった。いわゆる資本主義の勃興とともに、全く新しい世界が出来上がってしまった。全く新しい種類の平和と暴力とが出現した。その新しい種類の平和と暴力は、それまでに世の中に存在した、いかなる平和や暴力と比べても、全く懸け離れたものであった。
それまでの平和には、最低限のサブシステンスの保護という共通点があった。これは、サブシステンスまで害してしまうと、領主の戦争の支えもなくなってしまうという事情によって裏打ちされていた。ところが、これ以降の時代においては、サブシステンス自体が攻撃の対象になり、しかも「平和」の名において侵害されるということが起こるようになった。この新しい新たな種類の平和が守る対象は構造的暴力であり、その攻撃する対象は、それぞれの文化を支える柱たるサブシステンスである。
このような種類の平和のもとでは、何が人間的であるかということについて、各人が様々なイメ−ジをいただくことなど認められることではない。まして、それぞれの文化が独自の人間観に基づいて並立する状態など、到底認められない。しかし、このような平和こそが、現在我々が享受している平和の正体なのだ。
この新しい種類の平和は、あらゆる人々を一つの社会組織に組み込んでしまおうとする性質を持っている。個々でその組織化の目標になっているのは、あらゆる人間が一つのユ−トピア建設になるべく尽力できるような状態を作るということにある。そしてそのユ−トピアたるや、人間は何よりも経済的動機によって動くものであり、また人間は全て同じものであり個性などないという人間観に基づいて組み立てられたものなのである。してみれば、この新しい種類の平和の正体は、暴力を覆い隠す隠蓑以外の何物でもない。
パックスエコノミカという隠れ蓑を引きはがし、その下に隠れている新しい形の暴力の姿を白日の下にさらすことこそ、現在の平和研究が主要な課題として取り組むべき仕事なのではないだろうか。

註)
サブシステンス:民衆が自分たちに特有の文化を維持していくのに必要最低限の物質的・精神的基盤

「直接的暴力」とは、いわば通常の意味での暴力で、身体・精神に対する物理的侵害を指す。その典型としては、軍隊による戦闘行為、警察による弾圧、テロ行為などが挙げられる。これに対して『構造的暴力』とは、社会の構造そのものによって与えられる、人間の身体・精神に対する侵害を指す。具体的には、貧困、衛生状態の不備、政治的抑圧、文化的疎外などが挙げられる。

___イヴァン・イリッチ「暴力としての開発」
大西仁訳『暴力と平和』所収 1982年

▼アントナン・アルトー

天木祐治
2001/11/11(Sun) 19:56

こうして、社会は、自分が厄介払いをしたいとか、遠ざけておきたいとか思ったすべての人間たちを、精神病院で窒息させてしまったわけです。彼らが、或る種のひどく不潔なふるまいに関して、社会の共犯者になることを拒んだためにね。なぜなら、狂人とはまた、社会が、そのことばを耳にしたくなかった人間です。その人間によって、耐えがたい真実が口にされるのを阻もうとした人間です。

___アントナン・アルトー『ヴァン・ゴッホ』

▼ラップ

解 龍馬
2001/11/17(Sat) 02:15

ジェイムソンは、これまでモダニストが引いていた様々な境界線が崩れたことによって、ひとつの「新たな、文化による政治」を取り戻す権利があたえられるとしている。彼によればそれは、「政治的芸術や政治的文化の認識的教育的次元を前面に出す」、ポストモダンな美学なのである。
ジェイムソンはこの新たな文化の形式を今だ「現実とはなっていない」ものと視ているが、それはすでにラップの中で進化しているのではないだろうか。というのも、ラップのア−ティストたちは明らかに教育と政治的行動を目的としており、それは社会通念となった二分法である正当な(高級)な芸術と大衆の娯楽の別を、大衆的であると同時に芸術的なヒップホップによってなし崩しにしようとすることと切り離せないからである。
とは言え、ほとんどの文化批評と同様、ジェイムソンは次のような危惧を抱いている。すなわち、果たしてポストモダン芸術は、「批判的距離を廃棄する」からといって、効果的な社会批判や政治的抵抗を行うことが出来るだろうか、という危惧である。芸術的自律性の砦を切り崩したり、日常の商業主義的生活の内容を熱心に奪用したりしてきたせいで、ポストモダンは芸術は、「資本という巨大な存在」の外側に立ってアドルノの言う「神的でない現実」に変わるものを表象し(現実の批判とする)ために必要な「最小限の美的距離」を欠いているように見えるのである。
パブリック・エネミ−やBDP、アイスTの曲にダイヤルを合わせている人達は、彼の真正さや抵抗のエネルギ−の力を微塵も疑っていないかもしれないが、現代のあらゆる「文化的抵抗の形式は、それ自身が一部をなすと考えられる一のシステムによって、密かに武装解除され再び吸収されている」という非難は、ラップに対しても向けらるものなのだ。というのも、ラップはメディアのステレオタイプや暴力、さらには贅沢な生活の探求を非難しているが、そうしたものを開発して誉め称え、手に入れようとするのもラップなのである。
商業主義と資本主義システムを悪し様に言う一方で、ラップの「アンダ−グラウンド」な詩は、自分の商業的成功とビジネスでの成功物語を祭り上げている。なかには商業的理由でラッパ−がレコ−ド会社を変えたのを記して正当化するようなラップもあるくらいなのだ。
確かにヒップホップは、ジェイムソンが多国籍資本という「新たな世界システムの持つグロ−バルで全体化された空間」と見なしているものの完全な外部にあるわけではない。(但しジェイムソンは有機体論という疑問の余地のある前提に立っている。「全体化された空間」とかその「外部」とか言うと、まるで世界の中で起こる偶然の出来事や渾沌としたプロセスの山が、これまでもずっと、ひとつのシステムの中に全体化されてきたかのようだ!)けれど、このような総てを包括するシステムがあったとして、ラップがそうしたシステムの様々な特徴と有益なつながりを持っていることが、ラップによる社会批判の力を殺ぐ理由になるのだろうか。
あるものを効果的に批判するためには、そのものの完全な外部に立つ必要があるのだろうか?ポストモダンやポスト構造主義者が、存在論的に基礎づけられた様々な境界を批判的にずらすことで疑ったのは、「完全な外部」という考え方そのものではなかったのか?こうして、内と外という明確な二分法に反対するならば、自ずと尋ねたくなるのは、どうしてこれまで正しい美的反応には冷静で無関心な主観による距離を置いた干渉が必要であるとされてきたのか、ということである。
予め距離を必要とすることもまた、ヒップホップが否定する芸術の純粋さや自律性というモダニストのイデオロギーを表わすものである。事実、距離をとって関わりを持たない形式主義的判断ではなく、ラッパーたちは、極めて具体的な参加が関わり合という、別の美学を突きつけてくる。それは形だけで無く中身を伴うものなのだ。彼らが望むのは、何よりも先ずエネルギシュで情熱的なダンスを褒められることであり、じっと観想されたり冷静に研究されたりすることではない。
…(中略)…
アイスTも言うように、ラッパーは、汗で「ダンサー達が濡れるまでは楽しくなれない」のである。「制御不能」になり、荒々しく激しいビ−トに「憑かれる」までは、楽しくなれないのだ。魅惑的なラッパーが、神から与えられたライムの才能でオーディエンスを揺り動かすために憑かれたようになるのも、それと同じである。
…(中略)…
そこで憑依は、神的であるにも関わらず救いがたい非合理であり、眞の知より劣るものと批判されていた。更に重要なのは、神による所有である霊魂のエクスタシ−が、ブ−ドゥ−やアフリカ地方の宗教の持つ形而上学を思い起こさせることである。実際、アフロアメリカン音楽の美学は、そこに遡る。合理化と世俗化という近代性の企てから、これほど隔たったものがあるだろうか?モダニズムの合理化され、脱身体化したされ、形式化された美学に、これ以上反すものがあるだろうか?安定を手にしたモダニストが、ラップや飼いならされていないロック音楽全般に敵対的であるのも無理はない。
もしモダニストの合理化された美学とまるきり非合理的な美学、その強烈なディオニッソス的過剰が認識的・教導的・政治的要求を無効にしてしまうような非合理的な美学との間に存立可能なスペ−スがあるなら、これこそがポストモダン美学のためのスペ−スである。想うに、純粋芸術としてのラップが住まうのはこのスペ−スだ。ラップがそこで成長し続けることを、私は望んでいる。

註)
ジェイムソン:米国のポスト構造主義者
Public Enemy:
ヒップホップ界のパイオニアで、大御所的存在。Chuck Dを中心にバンドが出来る。80年代の初頭から活躍する。「Welcome To TheTerrordom」「911 Is A Joke」この曲は、20001年9/11のニュヨ−クテロをヒップしたもののようである最新作になる。「Best Of PublicEnemy-Millenniu 」に所収
BDP:
Boogie Down Productionsの略。1987年にデビュ−「Stop the voiolence」
Ice T:
本名 Tracy Morrow
80年代はカルフォルニアで活躍。自分自身のレ−ベルRhyme Syndicateを持つ。声の質は、ク−ルな響きを持っていて知的なト−ンの持ち主。

___R・シュスタ−マン『ポピュラ−芸術の美学/プラグマティズムの立場から』
秋庭史典訳 1999年