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「暴力」1.03

▼光州事件ーーー記憶の形象

解 龍馬
2001/12/02(Sun) 23:12

光州の二つの墓地を訪れたわたしは、極めて複雑な思いにとらわれた。駅やホテルで無料で渡される観光マップには、旧墓地の存在は見事に割愛されていた。何も知らない観光客は豪奢な新墓地だけを訪れ、死者たちの冥福を祈ると帰路につけるように想定されていた。新墓地の訪問はすでに韓国中の中学や高校の修学旅行の行程に含まれていた。五月ともなれば大学生を中心とした全国の若者たちがここに集い、死者への鎮魂を通して内面的な充実感を獲得するのだった。広島で8月になると繰り返されている追悼の集会や儀礼が、ここでは全韓国的な規模で反復されているのだと、わたしは思った。それはいつしか事件の当事者だけが持つ体験の直接性を離れ、民族統一という抽象的なナショナリズムの悲劇を歌い上げるために若者たちが集わねばならない、通過儀礼に似たものへと変容してしまっていた。
(…中略…)教授はその後で付け加えた。「わたしは今でも思っているのです。知識人である自分が最後の瞬間に道庁から逃げてしまったことを。そして歴史を記すのはいつも最後までその場に留まった者ではなく、逃げ出した知識人なのです。わたしは生き延びること自体が、それだけで罪だと思っているのです。」それは最初にあったときに彼が口にした言葉とほぼ同じ内容だった。ここでも暴力性がまだ現前していて、語ることの困難を引き起こしている。
(…中略…)それから真に語るべきものが決して口を開こうとせず、その場にいなかったものが声高に語っているとも付け加えた。心理学者のフランクルがアウシュビッツから奇跡的に生還した後に記した「すなわちよき人々は決して戻ってこなかった」という一説である。生き延びるとことはなるほど光栄ではあったが、同時に無限の負い目と後悔、喪失感を当事者に与えてしまうことになった。国家による事件の公式的認定と体験の風化とは裏腹に、この感情は呉在一の内面において、歳月を経るごとにいっそう重いものと化していったように、わたしには推察できた。
光州でわたしが対話できた二人の人物は、事件に対してまったく異なったかかわり方をしていたが、決して声高に語ろうとしないことにおいて共通していた。ひとりは生き延びてしまったことに悩み、にもかかわらず記憶の継承を求めて運動に参加したものの、運動そのものが不可避的にもたらしてしまう人間関係の政治に悩んでいた。もう一人は事件について語ることを自らに固く禁じた。直接の当事者だけがそれを語りうるものだと言う道徳的選択が、彼を呪縛していた。だが彼は、その当事者たちさえも事件を言明することの本質的困難に向かい合っている事実に対して、無力な自分をどうすることも出来ないでいた。二人の間には決定的な溝があった。
(…中略…)光州の「文化都市」化に対して、はっきりと批評的な距離を置いていた。それがこの街を巡っていかにも新しい神話を築きあげようとも、いかほどのものでもない。彼らの断念に満ちた沈黙は、そうした姿勢を物語っているように思えた。

___『聖域となった光州』「ソウルの風景」記憶と変貌
四方田犬彦著 2001年

勝手な呟き・・・。60年代、70年代と安保の紛争が、奇形、もしくは、歪みきったきった敗北の元にあった80年代、この国に戦闘とよべる場が消え去った時期、そこに、隣の国に光州事件という民衆と軍事の専門の空挺部隊の銃を交えた激しい戦闘があった‥‥。民衆の死体が、累々と積み重ねられ、ビルから軽々と捨てられ、投げられていたらしい。当時は、その動きに一縷の希望を密かではあるが確実に脳裏に刻もうとした時期がある。それから、すでに20年の歳月が過ぎた。事件のあり様を伝えるマス・メディアの報道は、注意しなければ見つからない程度のものだったように記憶する。ほんのすぐ隣の国のその時期の闘いの空気と呼吸は、遥にかなたの失われた儀式と化し、運動が風化と記憶の残形にしか見出せないほど遠くなった‥‥。
・・・山下洋輔の「ピカソ・リヴェンジ」を聴きながら・・・。

▼シチュアシオン

解 龍馬
2001/12/08(Sat) 03:09

このような側面は、潜在的にはポップやロックにおけるすべての黒人音楽に解釈の中に視ることが出来る。例えばジミ・ヘンドリックスの立場と彼に対する一連の評価の移り変わりにも、音の離散のプロセス見出すことが出来る。黒人音楽を大胆に白人ロックに導入し、ハ−ドロックとして解釈したヘンドリックス、イギリスに移った米国黒人としての彼はラディカルな黒人活動家からは「白い黒ん坊」として軽蔑されたが、彼の才能をそれで片づけるわけにはいかない。ヘンドリックスの野性的でセクシュアルで暴力的なキャラクタ−と音楽性は、英国では米国黒人のパ−フォ−マ−、ア−ティストの真正性の記号としてはたらいていたからである。このことは、ちょうどナイジェリア出身のキザイア・ジョ−ンズのギタ−とヴォ−カルがロンドンのストリ−トシ−ンからどんなイメ−ジで登場したかを考えれば、もっとわかりやすいだろう。
キザイアジョ−ンズはそのパ−カシィブなギタ−と、躍動するストリ−ト感覚で注目されているが、彼の音の中に流れているアフリカの血は、ジミヘンやジェイムス・ブラッド・ウルマ−の音以上に濃厚なものだ。しかし、それは飽く迄もロックであって、アフリカの音楽そのものではない。キザイアはナイジェリアの有名な部族の血を引くらしいが、彼の生活と音の選択はむしろディアスポラ状況に進んでいる。だが、いずれの場合でも、人種的、民族的真性性はすでに一種のシュミラクラとなっている。

___『ディアスポラと救済』−−視えない<共同体>
シチュアシオン 上野俊哉

▼韓国におけるヴェトナム戦争

解 龍馬
2001/12/10(Mon) 02:23

それから20年以上の間、日本にいる間ヴェトナム戦争について韓国人からなにごとかの思索を聴きえたとしたら、僅かに安聖基が主催するフィルム「ホワイトバッジ」(1992年)と、長らく獄中にあった小説家である黄皙暎(ファンソンギョン)の「塔」「駱駝の眼」からである。
(…中略…)退役軍人が大きな圧力団体として機能し、ヴェトナム古参兵が政財界から学会までを牛耳っている社会では、いくら民主化が到来したといって、ヴェトナム戦争に言及することは禁忌なのだろうな、という感想をわたしは持っていた。それはやはり従軍慰安婦問題を巡ってあれほどに日本帝国主義を糾弾してやまない韓国人にしても、やはり触れられたくないスティグマなのだろうと。
1999年になって状況が変わった。ホ−チミン大学に留学した韓国人研究者が現地での調査資料を持ち帰り、ソウルの市民団体と検証を重ねたのち、週刊誌「ハンギョレ21」に韓国軍の南ヴェトナムでの戦争犯罪の報告書を発表したのである。そこには民間人の殺戮、放火、強姦、妊婦殺害、毒ガス使用と、さながら旧日本軍が中国大陸で行ったものと寸分変わらない残虐行為が克明に記されていた。ハンギョレ新聞社は直ちに政府に真相究明を要求した。これに対して退役軍人たちの集団が一斉に激怒し、2000年6月には2400人が新聞社を襲うと、社員を暴行したうえにコンピュ−タ−を壊し、放火まで行うという事件が生じた。
問題追及側はそれでも挫けず、同年12月には明洞聖堂の手前のホ−ルで「韓国ヴェトナム参戦再検討大討論会」を開催した。ここでも退役軍人たちが大挙して押し寄せ、参加者たちを「アカ」呼ばわりし、ヴェトナム戦争が正義の戦争であったと声を枯らして主張した。おそらく調査と討議のさいに、こうした妨害はこれからも続くことだろう。だがそれは、退役軍人たち(その中には少なからぬ枯葉剤の被害者や精神疾患の患者も含まれる)にとって、あの9年間にわたる参戦がいかに大きなトラウマであったことかを、逆に物語っている。

___『歴史と他者』「ソウルの風景」記憶と変貌
四方田犬彦著

▼リルケのブランショ的「死」の欠落か?

解 龍馬
2001/12/15(Sat) 04:19

マラルメと同様、リルケも、ポエジ−を、不在との関連としている。だがこの二人の詩人の経験は、一見、いかにも間近いように見えながら、なんと異なっていることだろう。同じ経験のただ中にありながら、なんと異なった諸要請に心把えられていることだろう。
マラルメにとって、不在とは、常に、否定的なものの力だ。「事物の現実性」(詩の危機)を遠ざけるものであり、我々を、事物の重みから解放するものだ。だがリルケにとっては、不在とは、事物の現存でもあるのだ、黙々たる、不動の、限りない転落によって、中心へ落ち行かんとする欲求が集中する、事物の現存の内奥でもあるのだ。
マラルメの言葉は、存在を発見する。瞬間の瞬きたる激しさのうちに引きこもり、存在者を虚無化し中絶させる能力を持つもの、おのれ自身をも中絶させる能力を持つもの、かかるものの発する閃きとともに、存在を発見しているのだ。彼の言葉は、不在を、何か行為的なものと化し、死をひとつの行為と化するがごとき決定性を持つ。虚無をことごとく我々の支配下に置くあの自由意志的な死を、卓越せる詩的事件と化するがごとき決定性を持つ。「イジチュ−ル」の試みは、この事件を明るみに出したものなのである。
リルケもまた、あたかも詩的可能性の根源へ向かうかのごとく、死に向かっている、だが彼は、死とのより深い関連を求めているし、自由意志的死のうちにもやはり死の真理性の基盤とはなりえぬような、暴力的能力と権力的精神との象徴を見るに過ぎぬ。彼はそこに、死そのものに背くある誤謬を見ている。死の秘めやかな本質、及びその眼に見えぬ力への忍耐という点で、欠けたものがあると見做しているのだ。

___『文学空間』「作品と死の空間」
モ−リス・ブランショ
粟津則雄・出口裕弘訳 1983年

・・・RadioheadのI might be wrongを聴きながら・・。

▼秋山清

天木祐治
2002/01/16(Wed) 19:18

軍法会議における甘粕正彦の弁護人塚崎直義は、「国家重きか、国法重きか、国家あってはじめて国法があり、国法より国家が重きことは三尺の童児といえどもこれを知る」、「国家のために国法を破り非国民大杉を殺害しても、その動機は正当だ」(甘粕事件――『史談裁判』森長英三郎)と述べたという。
「国家」のために国法が曲げられることは、曲げられたのではなく、それこそが「正しい」とする思想がそこに存在していたことである。「国家のための暴力」、あるいは「国家のために発動する暴力」を正当とすれば、「国家権力そのものが発動する暴力」は「暴力にあらず」ということになるのはいうまでもない。大杉らの暗殺は手段としては法外、動機として国家安寧を願った篤志ある行為ということになるのである。だから国家の側からいえば、それは暗殺・虐殺といえども暴力ではなかったという恐怖すべき発想である。

___秋山清『わが暴力考』

▼偉いもんだよ人間は

天木祐治
2002/01/23(Wed) 21:07

ある年なんでか すずめがふえちゃって
よってたかって たんぼをめっちゃめちゃ
頭さ使って すずめをやっつけた
けっこうでねえかよ おけげで豊作だ
偉いもんだよ人間は
頭のできが すずめとはちがう

年は変わって その次の年

すずめの姿は ちゅんとも見えねえが
すずめが死んだら バッタがふえすぎた
あわててバッタを殺して 豊作だ
偉えもんだよ人間は
頭のできが バッタとはちがう

来年何がでるかは 知らねえが
とにかく殺しのテクニックだけは
なんでもあるから 全然心配ねえ
ありがたいのは 文明の力
偉いもんだよ人間は
頭のできが ちょいとちがう

___岡林信康『偉いもんだよ人間は』

▼現代音楽から見た音楽

解 龍馬
2002/02/09(Sat) 18:11

沈黙と言えば、音楽においてもピアノやピアニッシモのほうが、音と時間の暴力たる、現代社会における大都市の喧騒のフォルティッシモよりも、ずっと起爆性のある意味を担っているように思えます。例えば、ここに三時に着かなくてはならないとします。地下鉄で四十分はかかる、とにかく三時に着かなくてはならない、さもなくば世界は崩壊してしまう・本当は、四時でも五時でも六時でも七時でもここにくることが出来るし、世界は崩れ落ちることも無いのに。なぜなら世界は本当はいくつも、無限に存在し、すべては新しく、私たちが変わっていくのを助けているからです。
自然とは穏やかな海や落ち葉の色のようなものとは限りません。自然にはある種の「暴力」があり、それはなにもサイクロンや台風や嵐でなく、現実と非現実が判然としなくなる境界と言う「暴力」です。それは例えばある一枚の木の葉、または一本の木の実際のでき方、構造と「気」の喚起することの出来るイメージは無限で、さまざまな生命の木のイメージまでも意味することが可能なのです。

___ルイジ・ノーノ『現代音楽の詩と思想』
1991年発行より

ここで、当時の時代背景を思い出しておきましょう。当時は、世界大戦が終わって間も無い時期です。大戦の間、音楽には目立った動きはほとんど見られませんでした。前に述べたように、アメリカの実験音楽の伝統は二十世紀初頭のアイブスに始まり、たぶん、1920年代と30年代に、もっとも活発な時期を迎えました。そして、大戦が始まるとそれらは忘れらてしまい、ほとんど何も起こらなかった。戦争中は、音楽の実験どころではない世の中で、保守的な傾向がアメリカの音楽を覆ったのです。
1950年代初め頃、私は学生でした。そして、現代音楽は本当につまらないと思いました。それらは、非常に因襲的・保守的で、ほとんどのものが基本的にはストラヴィンスキーの(そして、時にはシェーンベルクの)伝統の単なる延長、踏襲でしかない。ストラヴィンスキーやシェーンベルクは、20年、30年、40年も前に最も活躍した作曲家であって、もはや、生きた力を持っていませんでした。言い換えれば、1950年代ころには、音楽の歴史上で、何か新たな音楽が誕生すべき時期が来ていたのです。
またこの時期は、政治的には、いわゆるマッカーシズム、つまり、極端で暴力的な反共、反左翼主義の時代で、左翼的な政治運動は政府によってまったく押さえ込まれていました。実験音楽は、1950年代初めこのような保守主義的、反動的な空気の中で、それを打ち破るように現れたのです。ただし、作曲家たちは、当時、それを意識していたわけではありませんでした。しかし、それにもかかわらず、彼らの音楽は、あまりにもそれまでの音楽と違っていると言う事実の故に、少なくとも文化を介して政治的な意味をも含むものとなっていたのです。
(…中略…)
アメリカでは、60年代半ば前頃から、人権問題が大きな社会的・政治的争点になっていました。つまり、黒人差別の撤廃運動です。しかし、ごくわずかの例外を除けば、60年代末から70年代初めの時期以前には、政治・社会運動と実験音楽との間には、何のつながりも見られませんでした。60年代の終わりになると、社会状況はるかに不安定になってきます。少なくともアメリカでは、明らかにそうでした。ベトナム戦争が始まり、一部の人々は反戦運動に立ち上がり、さらに、パリで、ドイツで、日本で、そしてアメリカでも、世界中で学生革命の運動が沸き起こる。激動の時代の到来です。
この時期は、実験音楽と政治・社会運動とのつながりと言うことにとって、とても重要な時期だと思います。当時の一般的な音楽状況を端的に述べるのは困難ですが、ひとつには実験音楽の沈滞傾向が見られます。作曲家のケージの評価は固まり、もはや論争を呼ぶようなことも無くなりましたし、純粋に実験的な音楽を行う作曲家は減り、保守的な傾向が強まりました。若い作曲家たちは、まるでルチア―ノ・ベリオの音楽の焼き直しとでもいったらよいような作曲に熱中する。それらは、決してひどい音楽と言うわけではありませんが、作曲の職人的技術の発揮に専心するばかりで、批判的な鋭さを欠いていました。むしろ、当時の政治・社会運動とのかかわりで重要だと思われるのは、60年代半ば頃から始まったロックン・ロールとその流れを汲む音楽です。それらは、鋭い批判精神に充ちていました。

___クリスチャン・ウルフ『音楽と社会』
1991年発行より

 

▼「批判的想像力の危機」

解 龍馬
2002/03/21(Thu) 05:14

私たちが今、それを撤去する努力を怠れば、過去の侵略的暴力的行為によって生起した差別と偏見は、現世代の中に生き続ける。現在生きている私たちは、過去の憎悪や暴力を作らなかったかもしれないが、過去の憎悪や暴力は、何らかの程度、私たちが生きているこの物質世界と思想を作ったのであり、それが齎したものを「解体」するために私たちが積極的な一歩を踏み出さないかぎり、過去の憎悪や暴力はなおこの世界を作り続けていくだろう。すなわち、「責任」は、私たちが作った。しかし、「連累」は、私たちを作った。

__テッサ・モ−リス=スズキ「批判的想像力の危機」
『世界』2001年1月号

日本人の戦争責任についての一文。過去の暴力や憎悪と現在の私たちとの「連累」についての文。

▼サ−チエンジンによるネット上での「暴力」

解 龍馬
2002/04/07(Sun) 03:23

ロボット型の検索プログラムでは、どれほどかけ離れた文脈の中にあっても、同じ単語を持つページは瞬時に拾い出されて隣り合わせに並ぶ。ここでサーチエンジンが行っているのは情報の地理的、時間的な乖離を取り除くことだけではない。言語的思考の伝統に基づく文脈と言う統合性を消滅させ、検索用インデックスの論理にしたがって組替えることで、まったく異質な「統語法」を情報間にもたらしているのだ。言語がこれほど容易に分断され再配置される状況を、人間ははじめて体験した。そしてこの新しい言語的乖離は、データベースが巨大化し、通信速度が上がり、検索プログラムが発達することで、さらに大きくなりつつある。
サーチエンジンによって、言語的情報は量的に大きくなった。また密度として高くなった。そして質の上でも異なる側面が生じつつある。ランダムな言語分断と組換えによってだけでなく、そもそも以前であれば言語化されにくかった性質の情報―――例えば個人の日常生活―――も日々大量に入力されつづけている。一方で、DNAの塩基配列などが発信されている。そうしたものが同時に処理されうる情報として、一種逆説的な並列性を帯びつつある。それは時に新鮮で、暴力的である。

「豚飼いと洗濯女と、サーチエンジンが歌う朝」
二木麻里
『ポリロゴス2―(メディア―越境する身体)』
収録2000年11月出版